『いまファンタジーにできること』(アーシュラ・K・ル=グウィン)

いまファンタジーにできること

いまファンタジーにできること

ル=グウィンの評論集です。
ル=グウィンはファンタジーを理解しない人々、「竜を怖がる」人々に対しては全く容赦がありません。そういった人々が明快な論理でバッサバッサ斬り捨てられていくので、読んでいて非常に痛快な気分になります。
たとえば、『ハリー・ポッター』が受けた理由を、書評家がファンタジーの伝統に無知だったため、この紋切り型で模倣的な作品が独創的であると誤認されただけであると、一刀両断してしまいます。
大学教育でのファンタジーの扱いについては、基本的に排除されているが、「ただし、一九〇〇年以前に書かれたか、英語以外の言語で書かれたか、マジック・リアリズムというラベルを貼ることができるか、の三条件のうちのひとつかふたつ、あるいは全てを満たす場合は別」としています。この皮肉の利き方がたまりません。
もちろんわたしもファンタジー読みとして全然未熟なので、ル=グウィンの刃で血まみれになってしまいました。自戒のために、いくつか印象に残った部分を引用します。

訓練を受けていない人がファンタジーを論じようとすると、ファンタジーを合理化することになりがちだ。言い換えると、物語の秩序以外の秩序を反映しているものとして「説明」しようとする。その秩序とは、神学的だったり、心理学的だったり、政治学的だったりするが、いずれにせよ、なじみのある秩序である。だが、真のファンタジーは寓意物語(アレゴリー)ではない。(p53)

ベッテルハイムとかブライとかいう人のはっきりとした目的のある功利的なアプローチや、より一般的な「心理学的」アプローチは、いずれも物語の要素のひとつひとつをその原型(アーキタイプ)、つまり無意識の源や、教育的用途などの観点から説明するもので、ひどく退行的だ。そういうアプローチは文学を魔法だと考える。それは言葉占い(ヴアーボマンシー)だ。このような解釈者にとって、文学の魔力というものは、ただちに癒したり、啓発したりする場合にだけ、魔力なのだ。(p54)

王が出てくると反動的な作品だと決めこみ、魔法使いが出てくると、迷信深い作品だと決めこむ。竜が出てくればナンセンスな話だと思う。物事を文字どおりに理解する(リテラルな)精神は、ファンタジーを読むための望ましい資質だ。自由な精神もそうだ。しかし、そのいずれも、非常に杓子定規であると、ファンタジーを読むには都合が悪い。それでもわたしは、イデオロギーにこりかたまった読み方でない限り、社会的な意識をもってファンタジーを読むことを歓迎する。というのは、現代のファンタジー作品には、背景として設定した封建制度もどきに安住している、許しがたいほど下らないものが多すぎるからだ。(p56)