『石を抱くエイリアン』(濱野京子)

石を抱くエイリアン

石を抱くエイリアン

非常に目を引く装丁です。斜面に立ち、いまにも滑り落ちそうな子どもたち。これは表、背、裏のカバー全体で一体化したイラストになっており、裏を見ると斜面の先にあるものがわかる仕組みになっています。ついでに、帯の文字も斜めにしています。そこにこのイメージ喚起力の高い謎めいたタイトルが、シンプルな題字で配置されています。
1995年、阪神大震災地下鉄サリン事件の年に生まれ、中学3年生で東日本大震災を迎える子どもたちの物語です。主人公は、親の絶望的なネーミングセンスのために同級生から「姉さん」というあだ名で呼ばれている八乙女市子。物語の冒頭彼女は、はやぶさの帰還で世間が騒いでいるのがウザくなり、家にある辞書から「希望」の項をすべて破り取ってしまいます。特に目標も希望もなくのんべんだらりと中学最後の1年を過ごす市子ですが、避けようもなくあの3月は訪れます。
大規模災害を描いた小説で難しいのは、死者を召喚するさい、どのような方法をとるのかということです。たとえばいとうせいこうの『想像ラジオ』では、ストレートに死者に語らせています。いろいろな予防線ははられていますが、死者を腹話術の人形にしてしまう生き残った側の身勝手さを脱臭しきることはできていません。川上弘美の『神様2011』は、自身の代表作を改作することで、失われた存在を浮上させることに成功しています。児童文学界では長江優子の『ハンナの記憶』が、逆に生き残った側をゾンビにするという興味深い転倒をなしとげています。
さて、『石を抱くエイリアン』では、とある笹生陽子作品を思わせる方法で死者を召喚しています。笹生作品は、あの嘘くささが作品を成立させる要になっていました。
『石を抱くエイリアン』は笹生作品よりさらに無造作にその方法を使用しているように見えます。しかし、無造作であればあるほどベタな虚構に縋らざるをえない人間の悲しみがあぶり出されます。そして市子は、それが虚構でしかないことを重々承知しているのです。
「姉さん」という立場を引き受けている彼女は、一歩引いた高見に立って周囲の人間や自分を眺めています。それは彼女の語りの文体にも表れています。体言止めや倒置法を多用し、七五調や七七調で締められることも多い文体からは、優雅さや余裕が感じられます。市子の達観した姿勢は、希望を持たず欲望のコントロールに長けているとされる現代の若者の心性を表しているようです。また、時代性にかかわらず、ある種の自意識の高い若者の姿を表していると捉えてもいいでしょう。