『金魚たちの放課後』(河合二湖)

金魚たちの放課後 (創作児童読物)

金魚たちの放課後 (創作児童読物)

おれも、いいやつになりたかったな。
そしたら、おれのまわりの生き物たちも死なずにすんだのかもしれないな。
(p72)

前編の「水色の指」は、自分は生き物を飼うと絶対死なせてしまう〈死神の指〉を持っていると思いこんでいる小5の少年灰原慎の物語です。学校で金魚を飼うことになりますが、懸命に世話をしているのに予想どおり慎の金魚はどんどん死んでいきます。自分の死にかけた金魚を友だちの元気な金魚とこっそり取り替えているところを転校生の遠藤蓮実に目撃され、ふたりはある取引をすることになります。
慎の思い込みは、さまざまな価値観に揺さぶられます。蓮実は、転校するたびに「法則とか傾向」を見つけようとしていたが、それは百回くらい試行しないと見つけられないかもしれないと思うようになったと語ります。

おれもずっと、探していた。おれのまわりにいるものたちがうまく生きられないのは、いったいなぜなんだろうって。法則、傾向、原因、理由。そんなものなんてないのかもしれないと、思うことのほうがこわかった。
(p101)

さらに、養魚場の職員は慎よりはるかに多い死に直面していることを知り、看護師の母もたくさんの死に立ちあってきたことに思い至ります。ここまでくると、もはや死は確率論の世界の話になってしまいます。
後編の「サヨナラ・シンドローム」では、主役が蓮実に交代します。中2の冬、今度は蓮実はアメリカに転校することになります。父の仕事の都合で引っ越し慣れしている蓮実の一家は、引っ越し前に今まで利用したことのなかった近所の飲食店に入ってみたくなったり、さほど仲のよくなかった人との別れが名残惜しくなったりする現象を、〈サヨナラ・シンドローム〉と呼んでいました。蓮実の身の回りでも人間関係のあれやこれやが起こりますが、これは一時の気の迷いで、症状でしかないということになります。
このように眺めると、河合二湖の運命観・人間観はたいへん冷たいようにみえます。しかし見方を変えると、感情を症状と捉え人間関係に過大な期待をしなくても生きていくことができる、人はわりとひとりでも生きていくことができるという希望が描かれているようにもみえます。河合二湖のYA作家としての稀有な資質は、そういった人間観を提示できるところにあります。