『あたしのクオレ』(ビアンカ・ピッツォルノ)

あたしのクオレ(上) (岩波少年文庫)

あたしのクオレ(上) (岩波少年文庫)

あたしのクオレ(下) (岩波少年文庫)

あたしのクオレ(下) (岩波少年文庫)

間違いなく傑作なのに、人に勧めにくい作品です。なにしろこの作品、主人公グループがひたすら悪役に負け続けて勧善懲悪がなされないので、読者は怒りを抱えたまま取り残されてしまうのです。
現代イタリアを代表する児童文学作家ビアンカ・ピッツォルノが、自身の子ども時代であった1950年代のイタリアを舞台として作り上げた学校小説です。そこそこの上流家庭の子どもであるプリスカ・ロザルバ・エリザの仲良し三人組のクラスに、スフォルツァ先生という新しい担任がやってきます。この先生、富裕層の子どもと貧困層の子どもが近くの席にならないように座席を配置するなど、差別的な教育をおこなっていました。留年して自分の受け持ちになった困窮家庭の子どもアデライデとイオランダを特に嫌っていて、ことあるごとにいためつけていました。正義感に燃える三人組はなんとかしてスフォルツァ先生に一泡吹かせてやろうと考えますが、ことごとく裏目に出てしまいます。
たとえばエリザが汚い言葉を使って先生に反抗すると、先生はイオランダがそそのかしたのだと濡れ衣を着せ、イオランダを放校処分にしてしまいます。反抗すればするほど結局はアデライデとイオランダがもっといたぶられることになります。そのため、ふたりとも放校になって守るべき者がいなくなってからでないと本格的な反抗を始められないという、なんとも皮肉な事態になってしまいます。
主人公三人組の正義感と生命力にあふれ機知に富んだキャラクター造形、楽しいいたずらの数々などに目を向けると、宗田理山中恒などの悪い大人ぶっ殺す系統の爽快なエンターテインメント作品のようにみえます。実際、時限爆弾形式の生物兵器を使った最終作戦などは、そのアホらしい作戦を成功に導くために実験を繰り返す様子などがとてもユーモラスに記述されていて、楽しく読み進めていけます。しかし目次を見れば、その作戦後の章タイトルは「エリザの努力、すべて水の泡となる」となっています。敗北ははじめから確定しているのです。
悪というものはこのようにふるまうのだということをリアルに描いてみせたという意味では、非常に意義深い児童文学ではあります。物語的なカタルシスはほとんどありませんが、それも現実の厳しさをそのまま描いたのだと受け止めるべきでしょう。
せめてこれは外国の昔の話なのだと思えればいいのですが、富裕層と貧困層の分断などは、残念ながらまさに現代の日本で進行しつつある問題です。それを考えるとますます気分が暗くなってきます。まったく、なんて小説を読ませてくれたんだ。