『セカイを科学せよ!』(安田夏菜)

主人公は日本人の父とロシア人の母を持つ藤堂ミハイル。見た目から「ガイジン」扱いされるので、目立たないように注意して世渡りをしていました。ところが中学2年生のときに強烈な転校生がやってきて、同じ科学部に入ってしまったために騒動に巻きこまれてしまいます。転校生の山口アビゲイル葉奈はアフリカンな見た目だけど日本生まれの日本育ち。肌の黒い人に期待される運動能力やダンスの能力もなく、自己紹介の時に好きなことを問われると「蟲」と答えます。この表記の「蟲」をみると多くの読者は江戸川乱歩を思い出すでしょうがそうではなく、昆虫類だけではない小さな生き物全般のことなのだと葉奈は熱弁し、クモやザリガニやカエルやヘビやイモリへの愛を表明します。そして、クラス中を一気にドン引きさせてしまいます。

「どのくらい大きな悩みだったら、悩みって認めてもらえるんですかね。小さいって認定されたら、もうなかったってことになるのかな。てか、悩みの大きい小さいって、どうやったら測定できるんだろ。全長も質量も測れないし」

差別といってもミハイルの場合はイケメン扱いされて持ち上げられるというタイプの排除なので、どちらかというと軽い悩みにみられてしまいます。しかし、人の苦しみに序列をつけることは上記の葉奈のセリフのような大問題を引き起こします。『むこう岸』のようにシリアスに振り切った社会派児童文学をものしている安田夏菜の言葉でもあることも考えあわせると、さらに説得力が増します。
この作品は重大な問題を軽やかに描くことに工夫が凝らされています。ミハイルはすでにかなりこじらせているので、その語りはお道化の入ったユーモラスなものになります。たとえば、彼のような人間を「ハーフ」「ダブル」「ミックス」のうちどう呼べばいいのか論争を聞くと、「俺はアイスでもなければ、ピザでもないんだ」という皮肉を内心でつぶやきます。さらに強烈なのは葉奈で、他人から排除される要素を持った人間が突き抜けた変人性をみせつけることで差別者の毒気を抜いてしまうというのは、『恋ワスレ鯉太郎』系統の山中恒のユーモア児童文学の手法を連想させます。
弱小部活ものとしての展開も熱いです。お約束の成果を出さなければ廃部危機が訪れると、葉奈はミジンコの心拍数を測定するというテーマをみつけ、科学部の面々も協力して課題に取り組みます。貧弱な実験器具とほぼ無の予算しかない逆境で奮闘する様子をみると、読者の応援にも熱が入ります。214ページの、セリフをたたみかけて試行錯誤のわちゃわちゃ感を出す演出が、特にうまいです。
ところで、人体の細胞は2年で入れ替わるのに自己同一性が保たれるのはなぜなのかという誰もが悩む大問題がありますが、葉奈はこのような回答を出します。

「思うんだけど、わたしの三十七兆個の細胞は、よっぽどわたしのことが好きなのね!」
「死んでも新しい細胞にわたしの情報を伝えて、ずっとわたしがわたしのままで
いるように、力を合わせてくれてるんだよ。」

わたしがこの作品で最も好ましく思ったのは、人は細胞の愛によって生かされているのだという葉奈の前向きな思想です。ただ、この考え方だと自分とは情報でしかないということになってしまいますけど。