『こずえと申す』(吉田道子)

草多の父と母は別居中。仕事大事人間の父と「ショージ(小事)」を重視する母の価値観が合わず、草多は弟の洋と母と一緒に、なぜか父のほうのじっちゃんの家で暮らすようになります。そんな草多の小4の夏休み、家の郵便受けに新聞が配達されず代わりに草でくくられたいろいろなはっぱが入れられるという事件が続きます。張りこみをしたところ、こずえというはかまをはいて木刀を装備して「ござる」語尾の武家ことばを話す少女が犯人であったことがわかります。
吉田道子作品の不思議なところは、題材を取り出すと社会派なのにあまりそういう感じがしないところです。この作品も、山に自動車道を造ろうとする動きとそれに反対するこずえどのという、開発と自然保護の明確な対立構造があり、那須正幹の『タヌキただいま10000びき』のような社会派作品ととることができます。ですが、そういった「大事」ばかりでなく「ショージ」のほうも印象に残ります。たとえば、草多の家事分担である丘のなかほどにある家から丘の下の郵便受けまで新聞を取りに行くという毎日のルーチンの描き方。

ダダーッとかけおり、胸にだきいれ、ダダーッともどる。かんがえない。かんがえるといやになるからだ。

こういう丁寧な「ショージ」の描写の積み重ねがあって、日常の「ショージ」と政治のような「大事」は対立するものではなく、連続性のなかにあるのだということを実感させられます。そのバランスゆえに、社会派児童文学のある種のうるささが軽減されているのではないかと思われます。
「大事」と「ショージ」のあいだにあるのは、人間そのものです。非常に極端なキャラづけがされているこずえどのは、はじめはたぬきとか天狗とかの仲間扱いされていました。でも学校に現れたときはふつうの服装で、語尾キャラは保持されているもののふつうに変な子どもとして過ごします。こずえどのの行動も、木刀で悪ガキを追い払ったりといった派手な活躍とともに、巻き尺で動物の足跡を測るとか木の幹についた動物の牙の痕を調べるとかいった地道な調査活動の様子も印象に残ります。そして、ふつうの悩みを抱えながらも信念を持って生きようとするこずえどのの人物像が浮かび上がってきます。この人物像を描ききったことが、この作品の一番の成果でしょう。
吉田道子は協会賞は受賞しているものの、まだまだ実力に評価が追いついていないように感じられます。もっと語られてしかるべき作家であると思います。