『9時半までのシンデレラ』(宮下恵茉)

ラシカルガイブ

妖精というのは気まぐれで、
幸福をもたらしたりいたずらに興じたりするものだ。
一人ひとりの悪さはたかがしれているけれど、
油断しちゃだめだよ、大群になった妖精たちは、
いたずらの規模も度を超すんだってさ。
そう、ほんの出来心で大地震だって起こすらしいからね。
                     コワール語

支配的な母親に悩まされている中学3年生莉子は、塾帰りにおそろしく美しい少女を目撃します。気になって尾行したところ、少女の目的地は素行のよくない若者が集まるといわれているパレット広場でした。ここでなかよくなったふたりは、塾が終わってから9時半までの短い時間の逢瀬を重ねます。
莉子と澪、ふたりの少女の出会いの場面が美しいです。横断歩道の向こう側にいてもはっきりとわかる美貌に莉子は惹かれます。それ以上に莉子の心をつかんだのは、自分と澪だけが他の誰も守らない信号を律儀に守って待っていたことでした。ここに、まったく別世界を生きているように思えるふたりのあいだの共感の回路が生まれます。
莉子の母親の虐待はかなりひどいものでした。自分の娘に「わたしに似れば美人だったのに、かわいそうねえ」と言い放つ冷酷さなどにはぞっとさせられます。澪はこの母親の行為に「心理的虐待」という名前をつけます。名づけという行為がこの作品の根幹です。莉子は自分が母親から不当な扱いを受けていたのだと自覚し、自分は本来は尊重されるべき人間なのだということを知ります。そしていま目の前には、お互いに尊重しあえるかけがえのない相手がいるのです。
一方で莉子は、澪に対する自分の感情に名前をつけることは保留します。ここの、「大切だからこそ、ずっと使わずにいる金色の折り紙のように、今はそっとしておきたい」という表現もいいですね。
ただ、本文中では「そっとしておきたい」としつつも、その外枠では結論は出ています。「シンデレラ」というタイトルは、母親による児童虐待と時間制限のある逢瀬を表しています。さらにこのタイトルからは、ロマンチックな恋愛も連想されます。
シンデレラストーリーが強固な異性愛規範や性差別思想に結びついていることは、見逃してはなりません。近年のディズニー映画に代表されるように*1、それを解体しようとする動きは活発になっています。この作品には、明らかに莉子に好意を寄せている優良物件の男子が登場しますが、莉子の目にはまったく恋愛対象として映りません。彼は『アナと雪の女王』のクリストフのように献身的な助力者としてふるまいます。『9時半までのシンデレラ』も、ジェンダーを超えたあり方を模索するこうした流れのなかに位置づけられそうです。

*1:河野真太郎『戦う姫、働く少女』(2017・堀之内出版)によると、ディズニーによるシンデレラ物語の否定は『リトル・マーメイド』(1989)『美女と野獣』(1991)あたりから始まったとされる。