『奇譚ルーム』(はやみねかおる)

奇譚ルーム

奇譚ルーム

動物のぬいぐるみのアバターを使用したVRチャットのような形式のSNSに、不思議な話を好む者たちが10人集められ、とっておきの奇譚を披露することになります。ところが、マーダーと名乗る謎の11人目の参加者が出現し、自分を満足させる話を語れない者は殺害すると宣言します。さらに、もし自分の正体を推理することができたなら命を助けてやると条件をつけます。はじめは半信半疑だった参加者たちも、実際に不可解な状況で参加者が殺害されたり、現実の自分の手の甲に×印がつけられたりしておびえきります。
以下、真相の核心部分にはできるだけ触れないように気をつけますが、かする表現はあるので、未読の方は読まない方がいいです。





あとがきによると、乱歩生誕120周年没後50年記念に乱歩風の物語を書いてほしいとの編集者の注文にこたえてこしらえたのが、この作品だとのことです。オチを読んだ直後にこのあとがきを読むと、どちらかというと夢野久作風ではないかという気もしますが、よく考えると納得できます。
乱歩のレンズ趣味・覗き見趣味を考えれば、現代に乱歩が生きていればVRに興味を持つであろうことは想像に難くありません。
参加者たちが語る奇譚も、分身をテーマにしたものや同一性への不安をテーマにしたものが多く、これも数多の乱歩作品を思わせます。
ストーリーやガジェットの表層をなぞるのではなく、乱歩の趣味の中核を取り出して現代風に再現してみせたという意味で、優れたオマージュ作品であるといえるでしょう。乱歩世界とはやみねかおるの赤い夢の融合には大きな意義があります。
それにしても、もっとも笑わせてもらったのは、××の正体です。はやみねかおるは思いがけないネタを繰り出してくるので、油断ができません。

『ぼくの同志はカグヤ姫』(芝田勝茂)

ぼくの同志はカグヤ姫 (ポプラ物語館)

ぼくの同志はカグヤ姫 (ポプラ物語館)

2016年10月に毎日新聞大阪本社版で連載された『同志カグヤ』を加筆修正して単行本にしたものです。
突然宇宙人から戦争をやめろ、環境を破壊するななどという命令がなされて、世界中が大混乱。学校では空から携帯ゲーム機が降ってきて、そこからかぐや姫が出てきて……と、あらすじを紹介してもわけがわからないので、説明は放棄します。宇宙人が出してくる情報はどんどんひっくり返されるので、読者は混乱するばかり。「なにがヨモツヘグイだ」とか、語り手とともにつっこみを入れても全然追いつきません。芝田作品のなかでもトンデモ度は高く、どこに連れていかれるか予想がつかないので、連載に向いていました。連載されていた当時は毎回楽しみで楽しみで。
芝田勝茂といえば、主軸はファンタジーとSFです。しかし、『サラシナ』や『虫めずる姫の冒険』など、古典に題材をとった作品に佳作があることも忘れてはなりません。『竹取物語』を下敷きにしたこの作品も、その路線にあります。作品だけでなく、古事記の講座を開いたり、縄文サマーキャンプを企画したりと、その視点ははるか古代に向けられています。過去を見渡す視点の射程の広さは、児童文学界随一でしょう。それにしても『ぼくの同志はカグヤ姫』の時間のスケールの大きさといったら、驚きあきれるばかりです。
また、芝田勝茂は激しい恋愛を書く作家であるという側面も、無視することはできません。『ぼくの同志はカグヤ姫』で描かれる関係は恋愛よりもむしろ〈同志〉という関係性ですが、その熱度は恋愛を主要なテーマにした作品群を超えています。
極端な面が多い芝田作品のなかでも群を抜いて極端な『ぼくの同志はカグヤ姫』、芝田勝茂を語るうえで欠かせない作品になりそうです。

『さかな石ゆうれいばなし』(奥田継夫)

奥田継夫による落語の再話集です。落語は元々陰惨な話が多いですが、この作品集ではその側面が強調されています。「首提灯」や「たがや」の暴力性、「一眼国」の差別性など。登場人物のセリフは落語の文体・テンポなのに、地の文が淡々としているため、その落差から話の残酷さばかりが目に付いてしまいます。
「落語は庶民の反骨精神の産物だという説があるが、私はそうは思わない。もっとドライなアンチ・ヒューマニズムというべきものが底にあるようだ。落語には毒があるのである。うすのろをばかにし、死者をからかい、失敗をあざ笑い、病人に非情である。」とは、星新一の言。著者の意図とは違うでしょうが、作品はそういった面をあぶり出しています。
そんななかでおもしろかったのは、医者の登場する落語を集めてアレンジした「医者たち――魚の骨」です。あとがきによると、しょっつる鍋を食べていて小骨をのどに引っかけたとき、医者にたらい回しされた自身の体験が元になっているとのこと。私怨が入っているだけあって医者に向けるまなざしが過剰に辛辣で、珍妙に味わい深い作品になっていました。

『ねこのネコカブリ小学校』(三田村信行)

1981年から1998年にかけて10作刊行されていた、ねこの学校の校長先生を主人公とする「ネコカブリ小学校」シリーズの第1作。シリーズの初期は短編集、後期は長編の形式になっており、『ねこのネコカブリ小学校』には6作の短編が収録されています。
第1話「校長先生のえんそく」は、引率するはずだった遠足に遅刻した校長先生が、一行を追いかける話です。寝坊して学校に到着した校長先生は朝礼台に上がり誰もいない校庭に向かって出発の挨拶を始めます。ここですぐに、校長先生が三田村信行らしい不条理世界の住人であることが印象づけられます。佐々木マキの描くキャラクターの目つきも常軌を逸していて、危険なにおいがプンプン漂ってきます。
気になるのは、第2話「たぬきの見まわり」と第4話「パックリ先生のひみつ」です。第2話は、シリーズのレギュラーキャラとなる富豪たぬき田ねこ太氏の話です。たぬき田氏はねこに化けてねこの町で暮らしているたぬきですが、このエピソードで、ありのままの自分の姿で生きることを決意します。第4話はオオカミがねこに化けて小学校の先生になる話です。こちらは、正体が露見すると失踪してしまいます。
三田村信行は、社会のなかにまぎれこんだアウトサイダーを好んで描いています。代表的なのは、やはりオオカミである正体を隠して人間の世界で探偵をしている「ウルフ探偵」シリーズでしょうか。スズキコージと組んだ絵本『夜の大男』のデエラボッチも、強烈な印象を残します。
『ねこのネコカブリ小学校』は、アウトサイダーが社会にとけこめるケースととけこめないケースの両方を1冊の本で提示している点が興味深いです。

『4ミリ同盟』(高楼方子)

4ミリ同盟 (福音館創作童話シリーズ)

4ミリ同盟 (福音館創作童話シリーズ)

ある地方に住む人々には、大きな湖に浮かぶ小島〈フラココノ島〉に実る習慣性・依存性のある果実〈フラココノ実〉をたしなむ習慣がありました。この実の〈食べ時〉が訪れないことには〈フラココノ島〉に到達することすらできず〈フラココノ実〉を食べることができないので、子どもたちはその日が来ることを心待ちにし憧れを募らせていきます。ところがこの物語の主人公ポイットさんは、48年も生きているのに〈食べ時〉にならず、何度も〈フラココノ島〉への渡航に失敗し続けていました。ある日ポイットさんはエビータさんという中年女性と出会い、自分も〈フラココノ実〉を食べていないということ、それを食べていない人間は4ミリだけ宙に浮いているのだということを聞かされます。ふたりは4ミリの仲間を集め、協力して〈フラココノ島〉を目指そうと取り決めることになります。
〈フラココノ実〉を食べるということは、ある種の通過儀礼の象徴なのでしょう。スタンダードな成長物語であれば、当然4ミリの仲間たちは〈フラココノ実〉を手に入れまっとうな大人になることに成功するものと期待されます。しかし、この本の著者は高楼方子です。彼女のデビュー作『ココの詩』は、恋に囚われたヤンデレ人形がある手段で世界を閉ざすという、アンチ成長物語の極みのような作品でした。一筋縄ではいきそうにありません。
ふたりは、批評家から〈何かが足りない〉と指摘されている画家のバンボーロさんを勧誘します。しかしバンボーロさんは、自分の現状を肯定して仲間になることを拒否、さっそく〈フラココノ実〉は食べるべきであるという価値観は揺さぶられます。しかもバンボーロさんは、ひとりになってから唐突に気分が変わって、ふたりに協力することになります。読者はふりまわされるばかりです。
結局、4ミリの仲間たちに足りないものはなんなのでしょうか。作中で明言されているのは、4ミリたちには〈学ぶ〉ということがないということ、4ミリたちの周囲には〈うふふ〉という空気が満ちているということです。
で、着地点はそうきますか。やはり高楼方子は悪い作家です。だからこそ、児童文学界には高楼方子が必要です、

『原民喜童話集』(原民喜)

原民喜童話集

原民喜童話集

原民喜の童話集。原民喜といえば、一般に原爆というイメージが持たれています。しかしこの本の著者紹介欄には「原爆体験を元に著した『夏の花』が代表作と言われているものの、詩作/創作小説・童話/エッセイなどに作家としてのきわめて純度の高い真骨頂が現れる。」と記されています。世間的なイメージを刷新したいとの強い意志が感じられます。
「誕生日」は、誕生日にちょうど遠足が重なった少年の話。しばらくよい天気が続いているというだけのことで世界中から祝福されているような気分になります。楓の赤、空の青、白菊の花といった色彩のイメージがあざやかで、素朴な幸福感に満ちた佳作になっています。
「もぐらとコスモス」は月夜に地上を見物したもぐらの話。これも、さまざまな色のコスモスや月夜に遊ぶ白いうさぎといった色彩が印象に残ります。
注目したいのは、1950年に北海道新聞で発表された「二つの顔」というSF色の強い作品です。宿題や試験が嫌な少年が兄と頭を取り替えてそれを乗り切る夢を見るという内容です。おでこをぶつけると入れ替わりが解除されるというお約束も、すでに実装されています。これは入れ替わりSFのプロトタイプとして重要な作品なのではないでしょうか。

『ピアノをきかせて』(小俣麦穂)

ピアノをきかせて (文学の扉)

ピアノをきかせて (文学の扉)

2016年に講談社児童文学新人賞佳作受賞作『さっ太の黒い子馬』でデビューした小俣麦穂の単行本第2作。ピアノに行き詰まっている姉千弦を元気づけるために、小学5年生の響音が谷山浩子の『カイの迷宮』をモチーフとした音楽劇を企画する話です。
『さっ太の黒い子馬』もそうでしたが、小俣麦穂はオーソドックスで安心して読める物語を得意とする作家のようです。登場人物の名前は名詮自性で、主人公は音を響かせ、姉はピアノを意味する千弦で、手助けして指針を示してくれる叔母は燈台の燈子と、わかりやすいです。『雪の女王』モチーフで、雪の女王毒親、それを姉妹愛で解決するアナ雪路線のストーリーラインも堅実です。
それでいて、親子関係の物語としては新基軸も出しています。この作品では、親も子もみんな初心者なのだから親子関係は失敗するのがデフォルトであるとの家族観が提示されています。そして、家族はジグソーパズルのようなものなのでうまくピースを調整する必要があるのだとします。
市川朔久子の『小やぎのかんむり』『よりみち3人修学旅行』や、いとうみくの『カーネーション』など、旧来的な家族観を破壊するような作品がこのごろ話題になっています。それらの作品よりはやや穏当ですが、『ピアノをきかせて』も家族観をテーマにした児童文学を議論するさい必須の作品になりそうです。