「クレヨン王国のパトロール隊長」(福永令三)

クレヨン王国のパトロール隊長 (講談社青い鳥文庫)

クレヨン王国のパトロール隊長 (講談社青い鳥文庫)

 このブログで「月のたまご」一気読みなんかをしているわたしが今更何を言っても信じてもらえないかもしれませんが、実はわたしはクレヨン王国が大嫌いなのです。そして、この「クレヨン王国のパトロール隊長」はわたしの嫌いなクレヨン王国そのものといっていいくらい嫌な作品です。
 まずは簡単にあらすじを紹介します。主人公は小学5年生のノブオ。母親を亡くし今は父親と継母と義妹と一緒に暮らしています。その義妹は信夫の不注意のために交通事故にあい、視力を失っています。そのことにノブオは罪悪感を感じています。まるで不幸のフルコース状態。それで、彼の一番の不幸は担任の右田先生からいじめを受けていることです。そんな不幸な彼が、クレヨン王国にいってパトロール隊長に任命されます。その仕事を通して、彼は癒やされ成長するという仕組みになっています。
 それで何が嫌いかというと、その説教臭さです。特に後書きの偉そうなこと。昔からこのオッサンはどんな高いところから物をいっているつもりなんだと不思議におもっていました。この物語では、傷ついた少年が別世界に行って成長してかえって来るという王道の構造を使っていますが、これはもうお説教するには格好のシステムなんですね。これが福永令三の手にかかると本当にお説教が先行して、押しつけがましい嫌らしさを感じてしまいます。
 ノブオと右田先生の関係が大きなテーマになっているのですが、ノブオが迫害される理由がこんな風に説明されています。「ノブオが右田先生の悪い性質を引き出しているから」だと。これはまるっきり「いじめられる側にも責任がある」という責任転嫁の思想です。弱者に責任を押しつけておいて、とりあえず場を収めておけばいいという卑劣きわまりないやり方です。これが嫌いな理由一つ目。
 二つ目は終盤にノブオが戦争を回避するために取った手段が自己犠牲であることです。
 三つ目、後書きにこんな事が書いています。

クレヨン王国の一二か月」が、少女の理想とすれば、この物語では、少年の理想を書こうと思いました。けれども、明るい、楽しいだけでは理想になりません。かなしみやつらさをのりこえていく力を獲得していく物語でなければ、少年は理想を感じないのです。いわば、自分が人間としてつよくなっていく手ごたえを感じなければ、男の子は満足しないものなのです。

 なんと硬直したジェンダー観か。女の子は明るく楽しいだけで満足して、ものを考えるな。女の子は力を獲得することに喜びを求めてはいけない、人間として強くならなくてよろしいと。重要なのは、この後書きが女の子に向けて書かれたものだということです。ただ作者のジェンダー観を吐露しているだけではありません。女の子に対してこのような男女観を持てというメッセージを送っていることになります。女の子をスポイルしようとする作家がどうして女の子に支持されるのか疑問です。
 ということで嫌いな理由をまとめると、責任転嫁、自己犠牲、性差別ということになります。思想的には最低です。ところがひっくり返して考えると、こういう要素によって作品が大衆性を獲得することに成功し、三文小説として非常におもしろくなっているともいえるのです。ええ、確かにこの作品は感動的なんです。だからこそ無批判に読んではならない。わかりやすい感動は時として思考停止につながります。