- 作者: 天沢退二郎
- 出版社/メーカー: 復刊ドットコム
- 発売日: 2005/11/25
- メディア: ハードカバー
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14編の童話が収められていますが、わたしの力量では内容を解説することはできません。理性的で残酷な悪夢の世界です。
「なめくじなまず」とか「猫王子」とか、独特の言語センスが光るキャラクターのネーミングも見所です。
なお、おまけとして2つの短い評論が収められていますが、これが興味深い内容でした。
はじめの評論「童話のリアリティー」の冒頭、賢治童話について語る天沢退二郎に対して彼の妹が「でもあたし、動物が口を利くなんて思わないもの」と切り捨てる場面が登場します。この妹の発言に反駁する形で論が始まります。童話のリアリティーを保証するのは、そのエリクチュールの多義性であり、理解されない「義」が理解しうる「第一義」の周囲に光芒をもたらす。これによって読者は真実を受け取れるのだと。世間の童話なるものに対する無理解が痛烈に批判されています。こんな具合。
「大人の童話」とか「アダルトファンタジー」といったレッテルが不快きわまるのは、このことからきている。
一部の児童文学者たちが「これはこどもには理解できないから児童文学ではない」といういい方である種の童話作品を否定する言辞も、同様の理由から、わたしにはまったく不快にきこえる。何を言っているのだ!
ふたつ目の評論は「《悪意》のファンタジー」と題されています。指輪やナルニアのような善悪二元論のファンタジーを、そのドラマ成立の契機に注目して論じています。つまり、善対悪の図式が成立する為には、まず悪の側が台頭してこなければならないと指摘しています。悪が現れるまで、主人公側は善でもなんでもありません。ということは、主人公の善性は、対立する悪の存在によってのみ保証されているといえます。こう考えると悪が主で善は従でしかないということになります。
悪意の存在によって善対悪というドラマが生まれる。筆者はその意味でマルクスの資本論もファンタジーはじまりの条件を備えていると言います。
すばらしい逆転の発想。これは盲点でした。善悪二元論は《悪意》を作品世界に瀰漫させるための装置であり、その悪意こそがファンタジーの魅惑を生み出していると。単純に思える善悪二元論もなかなか侮れないものです。