「水族譚」(天沢退二郎)

水族譚~動物童話集~ (fukkan.com)

水族譚~動物童話集~ (fukkan.com)

 マリ林による表紙イラストがインパクト強すぎです。川を流れる三匹の猫の死骸。タイトルに「動物童話集」とありますが、まっとうな神経を持った人間ならこの童話を子供に買い与えようとは思わないでしょう。
 14編の童話が収められていますが、わたしの力量では内容を解説することはできません。理性的で残酷な悪夢の世界です。
 「なめくじなまず」とか「猫王子」とか、独特の言語センスが光るキャラクターのネーミングも見所です。
 なお、おまけとして2つの短い評論が収められていますが、これが興味深い内容でした。
 はじめの評論「童話のリアリティー」の冒頭、賢治童話について語る天沢退二郎に対して彼の妹が「でもあたし、動物が口を利くなんて思わないもの」と切り捨てる場面が登場します。この妹の発言に反駁する形で論が始まります。童話のリアリティーを保証するのは、そのエリクチュールの多義性であり、理解されない「義」が理解しうる「第一義」の周囲に光芒をもたらす。これによって読者は真実を受け取れるのだと。世間の童話なるものに対する無理解が痛烈に批判されています。こんな具合。

「大人の童話」とか「アダルトファンタジー」といったレッテルが不快きわまるのは、このことからきている。

一部の児童文学者たちが「これはこどもには理解できないから児童文学ではない」といういい方である種の童話作品を否定する言辞も、同様の理由から、わたしにはまったく不快にきこえる。何を言っているのだ!

 ふたつ目の評論は「《悪意》のファンタジー」と題されています。指輪やナルニアのような善悪二元論のファンタジーを、そのドラマ成立の契機に注目して論じています。つまり、善対悪の図式が成立する為には、まず悪の側が台頭してこなければならないと指摘しています。悪が現れるまで、主人公側は善でもなんでもありません。ということは、主人公の善性は、対立する悪の存在によってのみ保証されているといえます。こう考えると悪が主で善は従でしかないということになります。
 悪意の存在によって善対悪というドラマが生まれる。筆者はその意味でマルクス資本論もファンタジーはじまりの条件を備えていると言います。
 すばらしい逆転の発想。これは盲点でした。善悪二元論は《悪意》を作品世界に瀰漫させるための装置であり、その悪意こそがファンタジーの魅惑を生み出していると。単純に思える善悪二元論もなかなか侮れないものです。