「ようこそ、おまけの時間に」(岡田淳)

ようこそ、おまけの時間に (偕成社文庫)

ようこそ、おまけの時間に (偕成社文庫)

 授業中、12時のサイレンが鳴ると、松本賢は濃い霧と茨に囲まれた不思議な空間に迷い込んでいた。よく様子を見ると、そこは今まで賢が授業を受けていた教室でした。ただし周りには茨が生い茂り、ほかの生徒は眠っています。それから毎日12時のサイレンと同時に賢はその世界に迷い込みます。賢は茨をカッターナイフで切り、自由に動ける範囲を増やしていきます。そして、座っている子供の周りの茨を切ると、その生徒が翌日その世界で目覚めることに気づきます。賢はだんだん仲間を増やしていき、学校中の茨を撤去していきます。
 本作は岡田淳の作品の中でももっともおもしろい作品だと思います。非日常が出現することによって、普段は疎遠だったクラスメートが連帯し、ひとつの目標に向かって力を合わせる。彼らの敵である「茨」は象徴として非常にわかりやすい*1。まさに物語の快楽を極めた作品だといっていいと思います。
 しかし、この物語がおもしろければおもしろいほど、ある寂しさを感じてしまいます。なぜなら、現実では「おまけの時間」が訪れることはないからです。となると、「おまけの時間」が現れたことによって得られた彼らの連帯もファンタジーになってしまいます。
 作者はあとがきで、このように述懐しています。

夢の世界が楽しいものになればなるほど、ぎゃくに夢を経験する以前の賢たちの生活が、ゆとりのない貧しいものであるという思いがふくれあがってきました。

 ファンタジーとしてのおもしろさを追求した結果、現実の貧しさがあぶり出されてしまうという皮肉。物語のおもしろさを極めて、同時に物語ることの限界にもぶち当たってしまっということなのだと思います。
 「ようこそ、おまけの時間に」はまぎれもなく傑作です。しかし傑作であるが故にどうしようもない欠落を露呈してしまったという撞着を抱えています。物語の限界と可能性を考えるのに適したテキストだといえると思います。

*1:そのうえ、「茨」という実体を与えたためにそれを排除することは非常に容易になってしまいました。なたをふるえば何とかなってしまうんですから。現実の茨は正体も対処法もまったくつかめないというのに。