「ココの詩」(高楼方子)

ココの詩

ココの詩

ゆめを見ましょう 春のゆめ
いつかわたしが大きくなったら
白い小さなお舟にのって
知らない国へと ゆーらゆら

 高楼方子は、現在もコンスタントに作品を発表し続けているにもかかわらず、伝説の作家です。なぜなら発表されているのは幼年童話ばかりで、年季の入ったファンが待っている長編が一向に発表されないからです。決して幼年童話のレベルが低いといっているわけではありません。しかしこの人の数少ない長編ファンタジーの神がかったおもしろさを知ってしまうと、幼年向けはいいから長編を書いてくれと思わずにいられません。だって第一長編の「ココの詩」がこんなに面白いんだから。これで数さえだしてくれれば、私はためらいなく高楼方子は日本のファンタジー作家のエースだと言い切ることができます。
 自由に動くことができるようになった人形のココは外の世界に出ていきます。子供部屋の世界しか知らなかったココは、ちんぴらのネズミヤスに騙されて、借金のかたに金貸しの猫カーポに売られてしまいます。騙されているとは夢にも思わないココはヤスに対する思いを募らせながらも、カーポやカーポの手下のイラとそれなりに楽しい日々を送っていました。ところがある日、モロというネズミと知り合い、カーポ達が絵画の贋作を作っているということを知ります。ココは贋作一味のたくらみを阻止するために、モロに協力しますが……。
 フィレンツェの美しい町並みを舞台に、生き生きとした個性を持った動物たちが動き回る楽しいファンタジーです。ベッキオ宮に悪党のネコが住み着いていて優雅に暮らしているという設定だけでわくわくしてしまいます。とりあえず第二部までは名作と言い切っても、おおかた異論はないと思います。ただあのラストには賛否両論あるでしょう。わたしも小学生のときは、あのラストはないだろうと思っていました。しかし今回再読してみて考えが変わり、この話にはあのラストしかありえなかったと思うようになりました。(以下ネタバレ)


 この作品の大きな特徴は、善悪という価値判断がまったく力を持っていないことにあると思います。キャラクターを見ても、きまじめな正義派のモロより、豪快な悪党のカーポや勉強バカのイラのほうが人間くさくて魅力的に見えてしまいます。なにより主人公のココが思いを寄せる相手が、はたから見れば救いようのない小悪党のヤスなのだから、ここで道徳的な説教をしようと思ってもなんの説得力も持ちません。
 この物語の悪役達が行う贋作という犯罪について、正義の側にいるネズミのウエムはこう語ります。

まったく同じに描くということは、ぼくは不可能だと信じてるけど、仮に本物そっくりの絵だとしても本物でなきゃいけないわけわあ、絵って何なのかってこととかかわってくるわけ。画家が、どうしてもその絵を描きたい、描かなきゃいけない、という強い思いにつき動かされて、真っ白いところに一筆一筆描くっていう、それがだいじなわけ。その思いが本物の絵の命であり、すべてなわけ。
(本文245ページより)

 ところが贋作一味は、本物に負けない「思い」が込められた贋作を仕上げてしまいます。仕事を終えたネコたちがぐったりしながら一仕事を終えた感動をかみしめている場面は、彼らが悪党であることを忘れてしまうくらいいい場面でした。このようにこの作品では、悪を断罪していません。むしろ悪の側こそ魅力があるように描いています。
 さらに面白いのは、「成長」という一般的に善とされている概念をまったくないがしろにしているところです。ココはヤスに何度裏切られても学習せず、彼のことを思い続けます。
 物語が進むに従ってココの外見は人形から小さな女の子、そして少女へと変容します。素直に読めばこれは成長だと解釈したくなるところですが、そうは問屋がおろしません。事件が終わったあと、ココはつらいことを全部忘れてしまいます。そのあと双子の青年に引き取られたココは勉強を始めます。読者は今度こそココが人間らしくなるんじゃないかと期待しますが、ここでまたしてもヤスが現れてしまいます。そして春風が吹き、唐突に人形のココが鍵を拾う最初の場面に戻ります。ここで無限ループ。永久にココは成長できないままで終わってしまいます。
 「ココの詩」が刊行されたのは1987年です。文学史的に見れば、1976年の皿海達哉「チッチゼミ鳴く木の下で」や1980年の那須正幹「ぼくらは海へ」などによって、児童文学の世界では「成長」という神話は破壊されています。ですから成長の否定というだけではそう驚くほどのことではないのかもしれません。しかしこの場合は主人公が「人形」の女の子です。これだとジェンダーという問題も意識せずにいられません。でもそんなことにはまったくお構いなく、ココは成長することなくお人形さんに戻ってしまいます。
 だからわたしはこの作品を倫理的な立場からいえばまったく支持することはできません。でもそんなことは作品の評価には関係ありません。文学は善悪を越えたものだし、人生だってそんなに白黒はっきりできるものではないんですから。
 仕方ないですよ。ココは白い舟に乗って遠い国に行くことに憧れてしまったんです。いくら正論で説いても、こんな深い業をどうにかすることはできません。理屈だけでは割り切れない人生の深淵をのぞかせるすごい作品だったんだというのが、この作品に対する現在の見解です。