「チイスケを救え!」(三輪裕子)

チイスケを救え!

チイスケを救え!

 小学5年生4人組が猫チイスケを拾って飼う話。四人の猫ということで拾ったのですが、3人はそれぞれの家庭の事情で家で飼うことができないので、結局は家で引き取ることになったひとりの子がすべての負担を引き受けることになってしまっていました。ところが猫がけがをしてしまい、23万円という莫大な治療費がかかることになりました。こうなると他の3人も黙っているわけにはいきません。漫画雑誌を買うのを我慢したり、クリスマスプレゼントやお年玉を現金で前借りしたりしてお金を貯めますが、なかなか目標額には届きません。 四人組のひとり、一郎の父親は、友人を心臓移植のために渡米させるため、募金活動をおこなっていました。一郎はそれをまねして、チイスケのために募金をはじめようとします。
 友人の間といえど、いや、友人の間だからこそお金のことはきっちりさせなければなりません。しかしお金というのは恐ろしいもので、金額という絶対的な尺度が見えてしまうので、それぞれの貢献度がシビアに露呈されてしまいます。しかしその明快さが作品を盛り上げており、なかなか読ませる作品になっていました。小学生にお金の価値を実感させるという意味では面白い試みではないかと思います。小学生にとっては23万円ははてしなく遠い金額ですからね。しかしこれがお父さんの募金になるとケタがさらにインフレし、9千万円になります。気が遠くなります。
 ところで、心臓移植、脳死問題に対するこの作品の扱いは少し杜撰だったので触れておきます。お父さんは一郎に脳死についてこう説明しました。

脳死といって、もう死んだ人から心臓を提供してもらうんだ。脳は死んでいても、心臓はちゃんと動いている」

 「心臓はちゃんと動いている」ね。臓器をとる側の都合しか考えていない表現です。とられる側にほんのちょっとでも想像力をおよぼしてくれれば、こういう表現はできないと思うんですけど。
 問題はその後の、なぜ渡米しなくてはいけないかという説明の部分です。

しかし、いくら手術を受けたくても、日本には、心臓を提供してもいいという脳死になったドナーの数が、とても少ないのだそうだ。それで、十ヶ月以内国内で手術を受けられる可能性はほとんどないらしい。
そのため、沼田さんはもっとドナーの数が多いアメリカで手術を受けようとしているのだった。

 この表現では、臓器不足は臓器提供の意思表示をする人の数が少ないために起こるかのように解釈されてしまいます。現行の臓器移植法を変えて脳死者すべてから臓器をとれば臓器不足が解決されるかのように受け取られる危険があります。根本的に勘違いしています。なにをどうしようとすべてのレシピエントに臓器が行き渡ることはありません。臓器移植が本質的に不平等医療であることを見据えなければ、この問題について論じることはできません。作中に沼田さんと同じ病気の人は一万人もいるってちゃんと書いてあるやん。どうやったら一万人も脳死者が出るのか考えてくださいよ。