「七時間目のUFO研究」(藤野恵美)

七時間目のUFO研究 講談社青い鳥文庫 245-3

七時間目のUFO研究 講談社青い鳥文庫 245-3

 藤野恵美は一月から当たり前のように毎月単行本を刊行し、めざましい活躍を続けています。なぜ彼女がいまだに無冠なのか不思議でなりません。
 アマゾンの「この商品を買った人はこんな商品も買っています」には山本弘の「超能力番組を10倍楽しむ本」や左巻健男の「水はなんにも知らないよ」などエセ科学を批判する本がならんでいます。藤野恵美の真摯な懐疑主義の姿勢が見る目のある読者にはすでに伝わっているようです。
 あきらと天馬、ふたりの男子が校庭でペットボトルロケットをつくっている場面から物語は始まります。ロケットを追って空を見ていた天馬は、突然UFOが見えたと言い出しました。あきらにはUFOは見えませんでしたが、その場は話を合わせて見えたことにしてしまいました。後日、ペットボトルロケットの取材に来た新聞記者の前で天馬がUFOを見たことを口走ってしまいます。それが記事になってしまったため、UFOを町おこしに利用しようとする大人の思惑がからんだり、UFOカウンセラーを名乗るアダムスキー江尻なる霊能者がテレビ番組をつくるためにやってきたりして大騒ぎが起こります。
 周囲の子供達やマスコミがUFOをネタに盛り上がる中で、唯一もののわかった大人の役をオカルト雑誌の記者に演じさせるところに藤野恵美のバランス感覚の鋭さが表れています。
 「デムパの沼」というテレビ番組で人気を博しているアダムスキー江尻の設定は、実際のある人物を揶揄したものだと捉えてよいでしょう。しかし彼のようなインチキ霊能者の存在自体はたいした問題ではありません。問題は彼が与えてくれる「宇宙の真理とは、愛と勇気、そして平和です。」といったような空虚な「てっとり早い答え」を求めてしまう人間が少なからずいるということです。藤野恵美はオカルト雑誌の記者灰原さんの口を借りて、そういったわかりやすい答えが求められる理由を解きほぐしていきます。

「簡単に理解できて、道徳的に正しくて、受け入れやすい答えを聞ければ、人は安心できるんだ。」(p187)

「自分を導いてくれる絶対的な存在というものを求める……。自分がどうすればいいか、だれかに教えてもらいたい……。アダムスキーさんのことを盲信する人は、そんなふうに思ってるんじゃないかな。それはとても、楽なことだから。」
「楽、ですか?」
「ああ。自分で考えなくていいっていうのは、楽なものだよ。自分の考えで、自分の責任で、自分で選び取っていくのは、こわいものだからね。だれかが、絶対に正しいというものを教えてくれたら、生きるのは楽になると思う。」(p188-p189)

 灰原さんの言葉を聞いて、あきらは自分が抑圧的な母親に従うことで楽をしていたことに気付かされます。そしてあきらは自分にとって絶対の存在だった母親を捨てる道を選び取ることになります。ここで、藤野恵美疑似科学の問題を通して問いかけていたものが、人が自立することの意味であったことが明らかになります。
 わからないことをわからないと認め、それを自分で引き受けることが自立であるとするなら、それを実現することは並みの人間にできることではありません 。人間がわからないがゆえにもっともおそれるものは死です。懐疑主義に目覚めてしまったあきらは、死がもたらすものがまったくの無であることに思い至ってしまい、大変な恐怖を味わうことになります。天国の存在を信じたふりをしてとりあえず死の恐怖をやり過ごす道もあるのに、小学生にここまでの試練を与える厳しさが藤野恵美の美点です。
 また、アダムスキー江尻とその信者に「われわれは孤独ではない」と唱えさせることによって、自立した人間が得るものは孤独であることも明らかにしてしまいます。彼女は自立に至るハードルがはてしなく高く困難であることを絶望的なまでに暴き立ててしまいました。しかし、彼女の真摯な語りかけには、どんなにそのハードルが高かろうが、それは目指さなくてはならないハードルなのだと思わせてくれる説得力があります。 
 もはや彼女を新人とか若手とかいうカテゴリーで論じるのは失礼でしょう。ここまで高い倫理性を持った児童文学作家はそうたくさんいるものではありません。さらに、そうした高度なテーマをエンタメとして料理する技術も証明されています。藤野恵美は次代の児童文学界を担う支柱になってくれるはずです。