「月下花伝」(越水利江子)

月下花伝―時の橋を駆けて

月下花伝―時の橋を駆けて

 古流剣術の道場主の祖父を亡くした少女秋飛は、ひきこもりのような生活を送っていました。道場で新撰組を題材にした古い映画を見ていると、沖田総司を名乗る青年が現れ、彼女は青年に惹かれていくようになります。秋飛は高校を退学し、仕出し屋(エキストラ事務所)に採用されます。そして、道場で見ていた映画のリメイク版の制作に参加することになり、剣術の腕をみこまれ、沖田総司の吹き替え役(スタントウーマン)に抜擢されます。
 映画の世界というと華やかな世界が想像されますが、この作品はエキストラ事務所のシステムや撮影風景が地に足のついた描写で説明されており、非常に説得力があります。おそらく綿密な取材や調査が元になっているのでしょう。古流剣術の描写も凝っていて、実戦向きの剣術は殺陣には不向きであることなど、なるほどと思わせてくれます。
 現代を生きる秋飛の物語と、映画の沖田総司の物語がパラレルに語られていきます。秋飛が持っているフィルムはこわれていてラストの部分がうつらないため、沖田総司は悲劇的な最期を迎えることなく仲間と過ごした幸福な日々の中で停滞しています。秋飛は祖父の死後前に進めないでいる自分に沖田総司を重ね合わせ、このまま停滞させておくのが彼のためだと判断します。しかしそのことを知った沖田総司は、どんな悲しい結末が待っていようと前に進むことを望みました。そんな沖田総司に背中を押され、秋飛も未来に向かって一歩踏み出す力を得ます。
 こんな感じでこの作品は秋飛の回復の物語と読むことができますが、それにしても特異なのは沖田総司の存在です。秋飛の前に現れる沖田総司の容姿は映画の役者のものなので、彼が現実の沖田総司とはまったくかけ離れた存在であることがわかります。彼は役者であり、映画の物語の中の存在であり、さらにそれを見た秋飛の心の中にいる存在であるという、非常にあやふやな立ち位置にいます。物語の序盤、秋飛は「リアル」であるということにこだわりを見せますが、この沖田総司は狭義の意味では「リアル」な存在とはいえません。が、そういう不確かななにかが人の心の支えになることもあります。秋飛は最終的に沖田総司の存在、自分に聞こえた声をこのように解釈します。

あれは、あの声は、あのことばは、おじいちゃんだったのかもしれない。あたしたちに、あの時、いえなかったことばを、おじいちゃんは総司を通じて伝えようとしたのだろうか。ううん、ちがう。あれは、総司の声。そして、おじいちゃんの声。父さんの声、母さんの声、熱い心を捧げ抜いて生きて死んだ、すべての人たちの声なんだ……この世界には、そんな声が満ち満ちている、きっと、そう。気づこうとすれば、だれでも気づけるすぐそばに、あの声はあるんだ。だれのそばにも……(p185)