「きみに会いたい」(芝田勝茂)

きみに会いたい―I Miss You (グリーンフィールド)

きみに会いたい―I Miss You (グリーンフィールド)

 1995年刊行。他人の心の声を聞く力を持つ少年と少女の物語です。中学生の少女幸恵が偶然少年の心の声を聞いたことで、二人の交流は始まりました。幸恵の方は二人の関係を心の声で交信しあうだけにとどめておくつもりでしたが、少年は幸恵に恋愛感情を抱き、直接会うことを望みます。やがて少年の妄想は暴走し、幸恵とふたりだけの世界をつくるため、超能力で原発を破壊して世界を滅ぼそうと画策するようになります。
 少年の正体を探る謎解き要素とベタベタな恋愛要素がうまくかみあって、さくさく読み進めていける優れたエンタメ作品になっています。
 「きみ」と「ぼく」と「世界」、ガジェットだけで見ればこの作品をセカイ系に分類しても無理はないでしょう。とはいえ、結末をご存じの方はおわかりのように、この物語は「きみとぼく」の物語としてはひとひねりしたものになっています。「きみに会いたい」発表当時にはまだセカイ系という言葉はありませんでしたが、セカイ系的な物語に対するに対するひとつの批評として読むこともできます。
 なお、芝田勝茂作品とセカイ系の関連については一項目こしらえて論じたいところですが、ここでは「星の砦(1993)」「進化論(1997)」において現在と未来の間の時間を省略することによってスムーズに中景をすっとばす手法が使われていることを指摘するにとどめておきます。
 話を「きみに会いたい」に戻しましょう。幸恵の持つ能力は正確に言えば他人の心の声が「聞こえてしまう」というものでした。幸恵の意志でそれを遮断することはできず、他人の性的な妄想までもが土足で心の中に入り込んでしまう暴力的な状況におかれており、彼女は鬱屈した感情を抱きながら日々を過ごしていました。
 別に他人の心は読めなくても自分の思考はわかりますから、そこから類推すれば人間なんてろくでもないことばかり考えているということは容易に予想できます。超能力なんかなくても幸恵の陥った人間不信には共感できるはずです。
 ところが幸恵は第一章で、そういった葛藤をすでに克服している存在として登場します。彼女は心の声を遮断する方法を編み出し、人間関係にもそれなりに折り合いをつけられるようになっていました。並みのお説教児童文学であればここで終わりになってもいいところなのですが、芝田勝茂はその先に進みます。
 幸恵に対峙する存在として、世界に対してはげしいルサンチマンを抱いている少年が登場します。そして問題を克服したかにみえた幸恵の立ち位置も揺さぶられていきます。
 幸恵は一般的な人間不信の問題と共に、超能力を使える少数者であるという問題も抱えています。幸恵が少年に力を使わないように諭す場面で、幸恵の割り切り方のいびつさが浮かび上がってきます。

 きみとは遠く離れているのに、こうして、おたがいに心で話してる。でも、こんなこと、だれにもできないの。わたしたちにしかできないことなの。それって、とっても変なことなのよ。気持ちの悪い、おかしなことなのよ。
(p47)

 マイノリティが気持ち悪いのはなぜか。それはマジョリティがそう見るからです。幸恵はマジョリティの視線に自分の視線を重ね合わせて自らを否定するという愚を犯しています。こうして幸恵の成長に見えたものが実はまやかしであったことが暴き出されていきます。
 善の側に立とうとする幸恵と悪の側に立つ少年、二人はお互いに補完しあう関係にあります。第一章での幸恵のように問題を克服したふりをしていては必ず無理が出てきます。自分の中の悪の部分も認めないと生きていけないという現実的なメッセージが投げかけられています。