「日高見戦記」(小野裕康)

日高見戦記

日高見戦記

 時は平安末期、八幡太郎源義家)が陸奥国の日高見国を討伐に行くお話です。物語は鬼を乗せた牛車の護衛を任された少年滝丸の視点で語られます。
 鬼に、鬼を使役する陰陽師の道摩、一行に同行する商人の鬼阿弥、阿虎夫妻、そして最強の武人にして美丈夫の八幡太郎。なんともくせのありそうなキャラクターがそろっています。前半はこんな一行の行軍の記録で、出来のいい伝奇小説になっています。
 しかし日高見国の正体が明らかになり滝丸が敵の手に落ちる後半部分は、小野裕康らしいぶっとんだ展開を見せてくれます。日高見軍はエミシや山人やコロボックル、宇宙人までもが協力し合っている超混成部隊でした。彼らは都の軍勢の暴虐に対抗するために団結していたのです。敵の内部に入った滝丸は、自分が美しいと思っていた八幡太郎に暗い側面があったことを発見します。仲間に見せる美しさと敵に対する残虐さ、二面性を持つ八幡太郎の姿はいくさというものの本質を象徴しています。
 終盤は狂乱の中全てが破壊されてしまいます(収拾がついていないだけという説もある)。読後にはむなしさしか残りません。この余韻もまた戦争のすくいのなさを的確に伝えています。
 物語のラスト、生き残った人々は「日本中央」と刻まれた石碑を発見します。

「なんと!このような最果ての地が日本の中央とな」
「そうだ、われらが生きて、戦い、死んでいったこの土地が、われらの日本の中央なのだ。たとえ都人には辺境であろうと。たとえ板東人には最果てであろうと、われらが生きているこの地のほかに中央があろうか!」
「そのとおりだ。われらの国はここにあり、この国の主は都人ではなく、われらなのだ。われらは南からわたってきた者であろうとエミシであろうとコロボックルであろうと山人であろうと、手をたずさえて新たな国をつくらねばならない。そこにすむ人々が主であるような当たり前の国を」

 もしかしたら小野裕康は征服された側の神話を捏造しようとしているのかもしれません。「ブリガドーンの朝」でも彼は「シンノウ塚」なる装置をつくり、神話に挑戦しています。