「ぼくらは海へ」(那須正幹)

ぼくらは海へ (偕成社文庫)

ぼくらは海へ (偕成社文庫)

 1980年1月に刊行され、文字通り80年代児童文学の幕をこじ開けた問題作です。もはや古典と言っていいくらいの名作なので、ネタバレには配慮しません。
 大まかなストーリーは、子供たちが自分達の力だけで筏を造り、大海原にこぎ出そうというもの。これだけの情報だと、いかにも明るくて希望に満ちた話のように思えるでしょう。しかし登場する子供たちはそれぞれ困難を抱えています。そして、台風の夜にみんなで作った筏を守ろうとした少年が死んでしまうというショッキングな展開を見せます。しかもそのあと、まるで後追い自殺のように仲間の少年が筏で海を目指し、彼らの死を暗示させて物語は終了します。
 この作品の大きな特徴は、作品世界に登場する子供達のあいだに格差があることを強調していることです。筏を造る仲間のうち邦俊、誠史、雅彰、勇の4人は育英会という進学塾に通っており、もうひとりの仲間の貧しい大工の息子である嗣郎とは経済的にも学力的にも明らかな格差があります。さらに育英会のメンバーの中にも、学力による厳密なランキングが存在します。そこにあとから、育英会メンバーよりも上位に位置する優等生康彦と、どちらかといえば嗣郎に近い立場の茂男が加わります。階級意識のシビアさは嗣郎の目を通して語られます。

子どもには〈できる子〉と〈だめな子〉の二種類があると、嗣郎は確信していた。
嗣郎は小学校に入学以来、いや、そのずっとまえ、ひょっとしたら生まれたときから、〈だめな子〉だった。〈だめな子〉は、どんなに努力しても〈できる子〉にはなれないし、大きくなれば、〈だめなおとな〉になるにちがいない。父ちゃんも母ちゃんも、やっぱり小さいとき〈だめな子〉だったから、大きくなっても〈だめなおとな〉にしかなれなかったのだ。
偕成社文庫版105ページより引用)

 この物語では、筏が作られた〈埋め立て地〉という特異な居場所において、階級の違う子供たちが出会うことによりドラマが生まれているのです。
 さて、この物語は6人の少年による群像劇なので、ひとりひとりについて詳細に語る余裕はありません。今回はもっともわたしの印象に残った康彦というキャラクターにスポットを当てようと思います。
 康彦は学力運動能力容姿人望のどれをとっても非のうちどころのない完璧な優等生です。そんな彼が、水泳のクラスマッチの選手を選ぶために、昨年優秀な成績を収めた誠史に目をつけます。しかし康彦に劣等感を持つ誠史は、選手を選考するための自由形の競技で平泳ぎをし、自ら勝負を下りてしまいます。ここは本作の中でも一、二を争う緊迫した場面です。あらかじめ用意された土俵では勝ち目がないことを悟った誠史は、わざと遅い平泳ぎをすることによって勝負を無効化し、康彦の価値観を転覆させようと試みたのです。この誠史の行動に康彦は心を動かされます。

康彦のかんがえ方からすれば、自分のクラスのために水泳大会に出場するのは、名誉なことでもあり、それが義務だ。誠史は、その義務を、いともあっさりと投げだしてしまったのだ。
康彦にとって、学校のことはすべてに優先することがらなのだ。家に帰ってごはんを食べたり、夜、ねることだって、よく朝元気に学校にいくための準備にほかならない。(中略)
そんな康彦から見れば、小村誠史という子の行動は腹だたしさをとおりこして、一種異様な感じがした。(中略)
おなじクラスの子が、自分の知らない場所で自分の知らないことをしている。そう思うと、なんとも心がさわいだ。
偕成社文庫版237ページ〜238ページより引用)

 今まで持っていた学校的価値観が揺らぎ、康彦は誠史たちの筏づくりにコミットすることになります。ここで康彦は抜群のリーダーシップを発揮し、停滞していた筏づくりが見事にかたちになるのですが、康彦の登場によってメンバーのあいだにわだかまりも発生します*1
 そして、階級の違う康彦と筏づくりの仲間たちが出会うことによって、筏は完成し、嗣郎が事故死するというドラマが生まれました。しかし注目すべきなのは、このドラマが康彦にまったく何ももたらさなかったということです。康彦は嗣郎の死をいとも簡単にこう切り捨てます。

人間はだれだってミスをする。あやまちをおかすことだってある。そうさ、あれはミスだったんだ。
偕成社文庫版323ページより引用)

 康彦にとってこのドラマは些細なミスでしかありませんでした。そして彼は相も変わらず前向きに学校的価値観を持ち続け、クラスのために頑張っているのです。結局嗣郎の死も誠史の挑発も彼の価値観に影響を与えることはできませんでした。正しくて強い人間の怖さはこんなところにあると思います。彼らは正しいから揺るがない、葛藤することがないのです。優等生はこわい*2
 まあ、ひどいのは康彦だけではないんですけどね。筏づくりのメンバーのうち半数は嗣郎の死にまったく無感動でした。逆に嗣郎の死に影響された邦俊らは海に出て死んでしまうのですから、まったく救いがありません。

*1:優等生がそうでない子供の手柄を引っさらっていくというパターンはスッコケシリーズでも何度か登場します。それが顕著なのが「ズッコケ文化祭事件」です。

*2:本作で提示された優等生のモンスター性の問題をエンターテインメントとして昇華したのが、「花のズッコケ児童会長」における津久田茂の扱いなのだろうと思います。