「屋根裏の遠い旅」(那須正幹)

屋根裏の遠い旅 (偕成社文庫)

屋根裏の遠い旅 (偕成社文庫)

 1975年の作品。本の扉に憲法九条が引用されているのが強烈です。
 小学六年生の省平と大二郎は、花山小学校の屋根裏からパラレルワールドに迷い込んでしまいます。今までいたはずの花山小学校は花山国民学校になっていました。そこは日本が太平洋戦争で敗戦せずに、未だに戦争を続けている世界だったのです。省平は戦艦大和を見学しているときにいらんことを口走ってしまい、憲兵に目をつけられてしまいます。彼らはスパイ扱いされひどい目にあわされます。そんななか二人と同じようにパラレルワールドに迷い込んだ人々と知り合い、元の世界に戻る方法を模索します。しかし元の世界につながっている小学校の屋根裏が日本軍の無人戦闘機の事故により破壊され、帰る道を失ってしまいます。ふたりはパラレルワールドで生きる決意をし、物語は幕を閉じます。
 パラレルワールドもののおもしろさは、我々が生きているこの世界の価値観を相対化してみせることにあります。あからさまな軍国主義が温存されているパラレルワールドは一見この世界とは無縁に思えますが、やがて省平達はこんな考えを持つようになります。

ちかごろ、ふと、おれも大二郎も、もともとこの世界に住んでいたような、そんな気がすることがある。(中略)
じゃあ、ベトナム戦争というのも日本が起こした戦争なのか。そうじゃない、日本は、平和で、戦争をしないことになっていた。
だったら、あの舟見市の西どなりの青葉市にあったばかでかい軍事基地、あれはどっちの世界にあったのか。毎日戦闘機がとんでいたし、兵隊がうじゃうじゃいた。
待てよ、あれは自衛隊といって、戦争をしない軍隊だ。それなら、戦争をしない軍隊が、なぜ鉄砲や戦車やジェット戦闘機を持っていたのだろう。
ひょっとしたら、あの連中が、中国大陸やベトナムで戦争していたんじゃないのだろうか。そいつを、おれが知らなかっただけじゃないのだろうか。おれは、どうも元の世界と、この世界をごっちゃに考えはじめたようだ。(偕成社文庫版91ページ〜92ページより引用)

 省平達はパラレルワールドと出会うことによって同時に自分たちが生きていた世界の矛盾にも直面します。そして元の世界に帰る手段を失った省平はこう決意します。

もはやおれたちに、もどるべき世界はないのだ。いやでも、このけったくそわるい日本の中で、せいいっぱい戦っていくしかない。

 別にパラレルワールドに迷い込むといったSF的な出来事が無くても、子供にはいつかこの世界が「けったくそわるい」ものだと気づく瞬間が来ます。とりあえず作者の思想や自衛隊の是非などの問題はおいてみても、少年の世界認識の変容を描いているという点でこの作品はまっとうな成長物語になっています。
 それにしてもこの作品は戦時下よく描いていると思います。ごく普通の人間が国家という暴力装置の末端として機能し従わない人間を排除するこわさが、異邦人である省平たちの目を通して子供にも理解しやすく語られています。面白いのは、省平と大二郎が元の世界にもどる道を決定的に閉ざしてしまった人間が悪人として描かれていないことです。二人の担任の山上先生は軍国主義的な教育をしてはいますが、いざというときは子供を守ろうという気概を見せます。しかし気概は見せますがすぐに長い物に巻かれて結局子供を守りきることができずに終わってしまいます。彼は弱い人間ですが善意の人間ではあるのです。屋根裏への道を閉ざしたのも、悪意ではなく善意から出た行動でした。彼はただふたりが非国民じみた行動をするのを心配して止めさせたかっただけなのです。同様に二人の行動を先生に密告した金森千穂もあくまで善意から密告していました。善意の人間を加害者にしてしまうのがこのような「けったくそわるい」世界のおそろしいところです。
 省平や大二郎と同じく元の世界から迷い込んできた正木先生は、二人にこんな質問をします。

そうだ、元の世界は、まだ平和なんじゃろうね。まさか、どこかの国と戦争をはじめてはいないだろうな。(偕成社文庫版142ページより引用)

 重い問いかけです。この作品が発表された1975年、偕成社文庫で再刊された1999年、そして自衛隊の海外派兵が当たり前になり、九条の命も風前の灯火に見える現在ではこの問いかけは違う受け止め方をされていることでしょう。まだまだこの作品は古びそうにありません。