「メジルシ」(草野たき)

メジルシ

メジルシ

 タイトルの意味が判明した瞬間背筋が凍りました。あれがあれしたものであろうことまでは予想できますが、まさかそんな意味が込められていたとは。草野たきは本当に怖い話を書くようになりました。
 中学三年生の双葉が家族で北海道旅行に行くお話です。この旅行が終わると双葉は全寮制の高校に進学し、両親は離婚して家族はばらばらになる予定になっていました。旅行は落ち度らしい落ち度がないにもかかわらず母親から一方的に離婚を切り出された父親のたっての願いで実現したもので、双葉は父親の顔を立てるためにしぶしぶといったポーズで旅行に臨んでいました。
 双葉にとって家族と一緒の旅行はまったく心の安まるイベントではありませんでした。旅行中に彼女に安心を与えたのは友達と繋がっている携帯電話やiPodから流れるいつも聴いている音楽や全国チェーンのファストフード店でした。いい悪いは置いておいて、これが現代の中学生の生活の一面を的確に切り取っていることは間違いありません。
 さて、双葉の右手にはヤケドの痕がありました。物語の序盤から容易に予想できるように、これは母親の虐待によってできたものでした。そしてその母親もまた抑圧的な母親に育てられていて、自分の思うままに生きられない大人に育っていました。双葉や双葉の母親は機能不全家庭に育っているので、人によっては彼女たちを広義のアダルト・チルドレンであると診断する可能性があります。作品を読み解く前提として、この作品が虐待の連鎖やACといった心理学的とされている言説に一定の影響を受けていることを確認しておきます。作品の背景には社会の心理学化があります。斎藤環は社会の心理学化を「『心という存在』を実体化しつつ操作しようとする傾向」と定義しています。こうした前提に立ってみると、娘が母親が隠していた過去の虐待を糾弾するこの物語は、典型的なトラウマ回復の物語として読み解けそうです。しかし双葉が欲しているのは単なるトラウマ回復ではなく、その先に進んでいるように思えます。
 周囲を冷静に観察する彼女にとって、両親はいい反面教師になっています。彼女は両親の轍を決して踏まないように、強迫的なまでに先を見据えて計画を立てています。たとえば両親の結婚が失敗したのは恋愛結婚ではなかったためであると予想を立てて、中学生のうちからしっかり男をキープしています。また母親と祖母の折り合いが悪いことも観察していて、自分は離婚後も母親といい関係を保っていけるようにとあれこれ考えを巡らせています。彼女はこんな具合に自分の現状を評価しています。

双葉は、中学校を卒業した今、この年頃としてはかなり進んでいるタイプだ。
寮とはいえ、ひとり暮らしをはじめるわけだし、なんでも相談できる親友も、頼りになる彼もいる。
親の離婚は、自分のせいじゃないし、今どきめずらしいことじゃないので、足かせにはならないだろう。
現に、親友のヤッコも、彼氏の勇矢も失っていないし、進学が決まっている高校から、受け入れ拒否をされることもなかった。将来は、通訳か翻訳家になるというはっきりした夢だってある。(p66〜67)

 ここからも彼女がいかに先を見据えているかがわかります。彼女はこの旅行に関してもひそかな計画を持っており、いやいや付き合ってあげているというポーズと裏腹に悲壮な決意を胸に秘めていました。

今どき、両親が離婚するなんてめずらしくない。
最後に、家族旅行をするというのも、けっしてイヤな雰囲気でバラバラになったわけじゃないことの言い訳になる。
双葉がこの旅行に素直についてきた本当の理由は、そこにあった。
大人になって、自分の過去を話すときに笑って話せるエピソードがほしかったのだ。(中略)
これからの自分は、そんな言い訳をしなければならない。だから、この旅行はまるくおさまってくれなきゃ困るのだ。(p122〜123)

 彼女にとってこの旅行は、将来のための「言い訳」を得るための旅行だったのです。彼女の望みは両親の離婚を心の傷として残さないようにすることでした。ここにあるのはトラウマを予防しよういう思想です。社会の心理学化が進み心が実体のあるものように扱われるようになった結果、トラウマは回復すべきものから予防すべきものに進化しました。この作品は社会の心理学化も末期の様相を呈してきたことを示唆しているように思えました。