「水の精霊 第2部 赤光」(横山充男)

水の精霊〈第2部〉赤光 (Teen’s best selections (2))

水の精霊〈第2部〉赤光 (Teen’s best selections (2))

 「水の精霊」の第二部。18歳になった真人は京都の夜間学校に通っていました。そんな彼の元に笠松健一という男が接近してきます。彼は四万十川を題材にしたテレビ番組を企画していて、真人に出演を求めます。真人は断りますが、実はすでに真人の周りには笠松が雇った人物がうごめいていて、真人は知らぬ間に笠松のシナリオに組み込まれていくことになります。
 第二部はいじめられっ子が隠された力を見いだされてどこに行ってもちやほやされるというハリポタ的シンデレラストーリーとして展開されます。しかしそれをテレビ屋の仕込んだやらせにしているところがこの作品の巧妙なところです。
 では、笠松とのやりとりを中心に真人がどういう青年に成長したのかを見ていきましょう。真人は基本的に他人のいうことを鵜呑みにしない思慮深さを持っている子で、特に二元論的な対立構図を押しつけられそうになると強い拒絶をみせます。

ただ、笠松の説得には、たしかにうなずけるところもあった。そのくせ、真人の奥深いところで、どうしても納得できない部分がのこってしまう。光と闇、善と悪、幸と不幸、優と劣、平和と戦争。そういう相対的な論理の立て方に、納得がいかないのかもしれない。究極の光はない。なぜなら、闇があるから光がある。究極の闇もまたない。光があるから闇を感じられるだけだ。(p349)

 ただし、真人も二元論的な思考から完全に自由になっているわけではありません。ふたたび笠松との会話を引用します。

「このままでは、たしかにこの地球は、この国はだめですね。なにか根っこから腐っている」
「空気がよごれ、水がよごれていますから、人間の細胞もやられちゃうんでしょ。脳細胞も、臓器の細胞も、それに遺伝子さえも」
「山本くんも、そう思いますか。この世界のというか、すくなくともこの国のひとびとの精神の荒廃は、教育やら文化やら哲学やらの問題以前に、水と空気の問題だと」(p338)

 霊感商法の前口上のような問答ですが、ここからわかるのは、真人も暗躍している大学教授や政治家と同様に世界が穢れているという認識を持っているということです。そして彼は穢れの存在とともに自分にそれを浄化する能力があることも信じていますから、すくなくとも彼は聖と穢、浄と不浄の二元論は信じていることになります。ここに彼のアンバランスさがあらわれています。
 彼の超能力に対する態度も不安定です。彼は自分の力は自然の力を活性化されるだけのものであると謙虚にとらえている一方で、超能力を信じないものに対しては攻撃性をみせます。今度は真人を隠し撮りしたフリーライターを締め上げる場面の真人の感想を引用しましょう。

この男にとって、超能力とは金儲けの対象でしかない。目の前で超常現象が起きていても、けっしてそれを現実とは認めないだろう。集団催眠、幻想、錯覚、それらすべては脳生理学的に説明可能なもので、超能力などこどもだましのばかばかしいものと、みずからにいいきかすのだろう。
自分とはなにか。脳が感知し認知する肉体のことか。ようするに五感で感じとっている総合的な感覚が自分なのか。なんとさびしいとらえ方だろう。そんな自分しかないとしたら、自分の五感が心地よければすべてはOKという結論になる。(p368-p369)

 「自分とは感覚である」という前提と「五感が心地よければOK」という結論の間にずいぶんと飛躍があります。それ以前に、相手と対話することなく、相手の考えを勝手に決めつけて勝手に批判しているところに問題があります。真人は決して聖人ではなく、このような独善的な面も持った人物として造形されています。そんな主人公像を確認したところで、第三部の感想に続きます。