「水の精霊 第4部 ふた咲きの花」(横山充男)

水の精霊〈第4部〉ふた咲きの花 (teens’ best selections)

水の精霊〈第4部〉ふた咲きの花 (teens’ best selections)

 「水の精霊」の最終巻。伴智利は笠松健一に再び四万十川を題材としたテレビ番組を作るよう指示を出しました。「三の花」と呼ばれる儀式を行おうとする真人とみずきの姿をテレビで放映して、それを見た人間を霊的に覚醒させようとたくらんでいたのです。ところがふたりは駆け落ちをしてしまいます。
 このシリーズは分量が長大で、しかもそのほとんどが神学論で占められているにもかかわらず、読むのがまったく苦になりません。思索小説と娯楽小説を両立させている稀有な作品になっています。並の作家にできる芸当ではありません。それが駆け落ちという嫌でも盛り上がらざるを得ないシチュエーションを取り入れているのですから、面白くならないわけがありません。ただしひとつだけ不可解なことがあったので物語に心から没頭することができませんでした。それは、なぜ真人とみずきは逃避行を繰り広げなければいけなかったのか、真人とみずきは彼らを追う勢力とどんな点で対立しているのかがわかりにくかったということです。
 ここで作品世界でうごめく勢力を整理してみましょう。ひとつは伴智利をはじめとする権力の側にいる勢力です。彼らはこの世界を穢れていると認識しており、それを清めるために真人とみずきに「三の花」の儀式をさせようとしています。次の勢力はセゴシの大人たちですが、これは一枚岩ではなく、一部権力にすり寄ろうとする動きも見え始めています。しかし彼らも世界が穢れていると認識しているのは同じで、「三の花」の成功を望んでいます。最後は真人とみずきです。彼らも世界が穢れていると認識していて、「三の花」を遂行するために力を尽くします。困りました。これでは彼らの対立ポイントがわかりません。強いて挙げるなら真人が権力を嫌悪していてることくらいしか理由が見当たりません。これだけ神だの宇宙だのを語っているのですから、なにかしら形而上学的な論点があってもよさようなものですが、それが見当たりません。もし本当に形而上学的な対立ポイントがないとすれば、それを提示できなかったことを失敗と取るか、あえてそこを反権力という世俗的な理由に踏みとどまらせたことをよしとするか、評価の分かれるところになるでしょう。
 では彼らはなにと戦っていたのでしょうか。答えは真人とみずきがなにから逃げていたのかを考えればすぐわかります。彼らは第二部から笠松の持つテレビカメラから逃げていました。つまり、真人はテレビと戦っていたのです。
 あらゆる手段を行使できる強大な権力を持つ伴智利が、なぜ自分の手先としてテレビ屋を選んだのか。その理由はこのように述懐されています。

山本真人と沢村みずきが、新宗教をたちあげれば、そして政治権力と手を結べば、すくなくともこの国は根源的な変革が可能である。そのための武器として、伴たちはテレビを選んだ。テレビの映像を、民衆は現実以上に現実のものとして受け取るからだ。テレビの画面こそが、この世の真実を映しだすという「テレビ神話」である。それにしても、人間の魂を堕落させた文明の利器、テレビをつかうというのも皮肉といえばいえた。しかし「花の秘」がテレビ画面で流された瞬間から、真人とみずきは新宗教の教祖として、巨大な星ともいえる存在になれるであろう。なぜなら、人類がはじまって以来、これほど多くの人間の前で奇跡をおこした者はいないのだから。しかもその奇跡は、圧倒的にリアルなテレビ映像なのだ。(p374-375)

 伴が利用しようとしていたのは、映像をリアルな物語として固定し、出演者と視聴者双方に大きな影響を与えるテレビの性質でした。この物語を大人に反抗する若者の物語として単純に解釈するならば、テレビを大人の論理に若者を組み込むための暴力装置として描き出してみせたことがこの物語の最大の成果です。
 作者がもっとも力を入れていたであろう水をめぐる神秘思想の部分は、わたしにはありきたりなニューエイジ思想もどきにしかみえなかったので、その面ではこの作品を高くは買っていません。ただし娯楽性の高さとテレビとの戦いをテーマのひとつに選んだ慧眼は買っているので、もっと語られていい作品ではあると思います。

おまけ 「水の精霊」から「幻狼神異記」へ

幻狼神異記〈3〉満月の決戦 (teens’ best selections)

幻狼神異記〈3〉満月の決戦 (teens’ best selections)

 ついでに2008年に発表され全三巻で完結した「幻狼神異記」について簡単に触れておきます。これは「水の精霊」と同じくポプラ社の「teens’ best selections」から刊行され、神道をベースにしたファンタジーであるという設定も似ていたため、ファンの間では実質的な「水の精霊2」になるのではないかと期待されていました。
 この二作の大きな相違点は主人公の性格です。「水の精霊」の真人が逃げる主人公だったのに対し、「幻狼神異記」の健は戦う主人公になっていました。これは宇野常寛が「ゼロ年代の想像力」で提唱した「セカイ系」から「決断主義」へという歴史認識にぴったり当てはめることができます。
 真人は自分の能力を使って社会貢献しろという社会の要請から逃げ続け、結局社会と距離を置いてひきこもってしまったセカイ系型の主人公でした。それに対し健は、早い段階で戦わなければ生き残れないサバイバル状況を受け入れ、狼霊という超常的な力と契約して暴力を行使する決断主義型の主人公となりました。
 「幻狼神異記」で健が人間に序列を付ける考え方を嫌う場面が目立つのも、彼がバトルロワイヤル的な現実を認識していたからなのでしょう。
 こうしてみると、横山充男が宇野常寛のいうゼロ年代的な感性を持った作家であることがわかり驚かされます。