「すりばちの底にあるというボタン」(大島真寿美)

すりばちの底にあるというボタン

すりばちの底にあるというボタン

 老人が多く、子供や若者の姿はほとんど見あたらない、そんなどこにでもありそうな衰退しかけた団地が舞台。ただひとつだけ普通の団地と違うのは、すりばち状の地形に建てられているということです。そのためこの団地は「すりばち団地」と呼ばれていました。
 このすりばちのそこに当たる部分にはボタンがあるという噂が、団地内で流布されていました。父親が失踪したためにおじさんに引き取られて数ヶ月前にすりばち団地に引っ越してきた晴人は、おじさんからすりばちの底のボタンを押すと夢が叶うという話を聞かされ、なんとなく団地内を歩いてボタンを探す日々を過ごしていました。その様子を同級生の薫子と雪乃に見られ、なにをしているのか訪ねられた晴人は、思わず本当のことをいってしまい、ふたりから思いがけない非難を受けることになります。ふたりが知っている噂では、すりばちの底にあるボタンを押すとすりばち団地は沈んでしまうことになっていました。だからふたりにしてみればボタンを探すことなどとんでもないことだったのです。このことがきっかけで三人はすりばちの底のボタンをめぐる噂話の謎を追うことになります。
 一方、団地のじじばばの暗躍で、衰退の一途をたどるかに見えた団地は急に賑わい始めます。じじばばの当面の目標は行われなくなって久しい盆踊りを復活させること。物語はこの盆踊りに向かって収束していきます。
 着想の勝利です。すりばち団地という蟻地獄を連想させるユニークな空間と、そんな場所にうってつけのうさんくさい噂話。ノストラダムスの予言が失効してから早くももう10年になりますが、それでも終末願望は人々を惹きつけてやまないものです。魅力的な謎が読者を牽引してくれるので、ページをめくらせる力は非常に強かったです。
 そして圧巻なのは現実と幻想が解け合うクライマックスの盆踊りの場面です。古いものも新しいものも、近いものも遠くのものも、すべてをとかしあわせてしまいました。この盆踊りの場面では、あらゆるものの境界が消滅しています。そう考えると、この団地の役割はすりばちというよりもるつぼといった方が正確かもしれません。
 境界を巡る象徴的なエピソードがあります。それは、物語の序盤で披露された薫子の奇妙な決心です。彼女は走るときは走る、歩くときは歩くとはっきりと決め、無自覚に走ったり歩いたりすることはやめると決意したのです。彼女によれば無自覚に走るのは子供のやることなのだそうです。しかし、物語の最後で彼女は、ゆっくり歩いていたはずなのにいつの間にか無自覚に走り出して、禁を破ってしまいます。ここで彼女がこだわっていた境界意識は破壊されます。