「マイナークラブハウスの森林生活」(木地雅映子)

 木地雅映子が1年に本を2冊出す?このペースだと年間3冊もあり得ない話ではないかも?これは夢ではなかろうかと本気で考え込んでしまいます。
 弱小文化部の吹きだまりのマイナークラブハウスを舞台にした学園小説「minor club house」の2巻が出ました。今回はマイナークラブハウスの合宿が物語の軸になっています。
 それにしても森林生活ですか。森林生活というとなにか健康的なもののようにも聞こえますが、昔話なんかだと森には怖いものしかありません。わたしはこの高校生たちの森林生活から、谷山浩子の「森へおいで」を連想してしまいました。
 以下、気に入った部分を引用しながら作品の内容に触れていきます。

「大決算大赤字!」
「過剰予算ダム工事!」
「窓の桟、掃除!」(p87)

 いや、この子たちが何の遊びをしているかわかる人がどのくらいいるか少し不安になってしまったのですよ。山号寺号で盛り上がれる高校生いいなー、仲間に入れてもらいたいなー。

「言葉を使うようになる以前の思考は、すべて言葉以外のもの……イメージや、音や、匂い、手触り……そういったものだけで構成されていた。それらの思考を、今、記憶として外へ出すには、まず脳の中で当時の感覚をそのまま再現して、それを言葉に翻訳し直して取り出す、という作業が必要になってくる。」(p89)

 第七話での晴一郎の台詞です。第1巻ではマイナークラブハウスの奇人ランキングのトップをぴりかが独走していましたが、2巻で晴一郎が猛烈に追い上げてきました。彼もややこしいものを抱え込んでいます。1巻ではのどかな園芸おにいさんのイメージだったのに、ぴりか以上に獣じみた面を見せるようになりました。彼の動向からも目が離せなくなりました。

「ほんとに、あたし、あの人に、頭からがりがりって、まるごとかじられるんじゃないかって気がして……。」(p178)

 第八話に登場する太賀野梨子が母親の印象を語る台詞です。第九話ではバレー部の監督が女子生徒相手に起こした淫行事件が問題になります。被害生徒の母親が事件を表沙汰にしようとしなかったことについて、スクールカウンセラーの湯浅英彦は以下のように論評しています。

「……こういう人間関係の中で受けた傷を乗り越える、ということはつまり、その内側で自分がやってきた行為の意味も、すべて直視しなきゃいけなくなるんですよ。それ、ハッキリ言って、並大抵の人間には、キツすぎてムリなんです。だから母親たちはやらせたがらない。自分たちが生きてきたのと同じ、そういう傷を抱え込んだまま、すべてを曖昧にして生きる道に、娘たちを誘おうとする。ある意味、愛です。母の愛。」(p194-195)

 ぴりかと母親の件も含め、2巻になって、母と娘の問題が前面に出てくるようになりました。被抑圧者である母が娘に対しては抑圧する側に回り不幸を再生産する構図が描き出されています。いや、これは母と娘に当てはめると構図が見やすくなるというだけで、母と娘に限った問題ではありません。息子にももちろん当てはまりますし、部活での下級生シゴキの伝承もこういったシステムに組み込まれています。千野帽子が解説で使った言葉を借りれば、これは木地雅映子の描く子供たちが嫌悪する「世間への同調」の問題です。

おれは猫だ。おれはおれの道を知っている。
おれの生は、善でも悪でもない。おまえたちだって、それでいいはずだ。(p268)

 第十話での猫から人間へのメッセージです。なんと第十話では猫が語り手になるのです。シリーズがどこへ向かおうとしているのか、現時点では全く読めません。

どうせ逃げられない運命なら、孤独になるのを怖れているところなんか、まわりの人間に、見せる訳にはいかない。見せてる場合じゃない。(p274)

 「おまけ」の章での福岡滝の独白です。そう、この気高さが木地雅映子の描く子供の一番の魅力なのです。