「六月のリレー」(伊沢由美子)

六月のリレー

六月のリレー

風が強く吹いているけど一瞬の風になったりはしない、ちょっと前に流行した「走る」系のエンターテインメントとは一線を画したダウナー系の陸上小説です。「風」と題された第一章では、中学の体育祭の朝に吹き荒れる風の描写で、作品世界の不穏な空気を読者に印象づけています。風は津波のように砂を吹き飛ばし、放送席の机や椅子の色を変え、体育祭の先行きに不安を感じさせます。続いて、2年D組でリレーの代表選手になった5人の生徒が紹介されます。彼らがそれぞれ家庭に問題を抱え、このリレーになんらかの思惑を持って臨んでいるらしいことが暗示され、第一章は終わります。この後、競技開始までのそれぞれの選手の物語が交互に語られる構成になっています。
第一章の時点で開示されている情報は、タオルで頭を隠している男子が髪を染めているらしいことや、ふだん真面目な女子が化粧をしているらしいことなどです。学校行事でしかもスポーツのイベントとなると、徹底した秩序が求められます。こうした逸脱行為は学校側としては見逃せません。当然彼らは校則違反で失格になってしまいます。この逸脱が行われたのが学校生活の中でも特に秩序が求められる場であったことには重大な意味があります。リレー以前にまず強風によってプログラムがころころ変更され、体育祭の秩序はあらかじめ失われていたことも見逃してはなりません。
では、彼らははなぜそんな逸脱をしたのでしょうか。その理由を明確に説明することは難しいです。が、言語化しにくい生きづらさを描き出せるのが文学の力というものです。読めばそれが彼らに必要であったことくらいは理解できます。最初から最後まで鬱鬱で読後感もいまいちすっきりしない作品ですが、よい小説を読んだというずっしりとした満足感は残りました。
走り終えた彼らは、具体的になにかを得たわけではありません。彼らがそれぞれ抱えている問題が劇的に改善する見込みは示されません。ただ、風が吹いたという事実が残っただけです。それだけで充分なのだと思います。