「ひとりたりない」(今村葦子)

ひとりたりない (おはなしルネッサンス)

ひとりたりない (おはなしルネッサンス)

琴乃の家は、父母と姉の志乃と弟の周斗の5人家族でした。しかし姉が交通事故でなくなってしまったため、「ひとりたりない」状態になってしまいます。姉が亡くなったのは道端で兄弟3人で遊んでいるときでした。道路に転がっていったサッカーボールを弟が追いかけ、それを引き止めた姉が反動で車道に飛び出してしまい車にはねられてしまったのです。目の前で姉をうしなったショックで弟は幼児退行してしまい、さらに両親はアルコールに依存するようになり、琴乃の家庭は静かに崩壊していきます。
こういう非常時に一人だけ正気を保っているのもつらいものです。比較的冷静だった琴乃の視点から回想形式で淡々と家庭が壊れる様が語られていくので、作品世界は大変重苦しいです。過度な感傷を避け、人の死とそれがもたらすものをありのままに描こうとする意思が感じられました。
姉が事故にあった場面を引用してみます。

周斗がわるかったなんて、これっぽちも思いませんでした。自分がついていたボールが、ぴょんとよこにはねたら、それをおいかけるように体がうごくのはあたりまえのことです。だれだって、自動的にそうなってしまうはずです。そして、おねえちゃんのしたことだって、ほとんど自動的なことでした。あぶないっ!と思って周斗を引きよせ、その反動で自分が前にとびだしてしまう。――それも、あたりまえのことです。
(p18)

泉鏡花の初期作品に、「夜行巡査」というのがあります。かなづちの巡査が恋人の伯父が溺れているのを助けようとして溺死してしまう話です。この伯父はふたりの恋仲をじゃましている人物で助けてやる義理はないのですが、それでも巡査は自動的に助けてしまいます。伯父をいやな人物に設定することで、身体が自動化してしまうことの悲劇を際だたせています。
「ひとりたりない」でも自動的な身体が描かれていることは共通しています。しかしこちらでは、弟の自動的な動きに連鎖して姉の身体も自動的に死に向かって動いてしまう、一連の連動的な流れとして描いているところが特徴的です。死がベルトコンベアー式に自動的に訪れるものであることがより強調され、作者の厳しい死生観が表出されています。