「魔女の宅急便その6 それぞれの旅立ち」(角野栄子)

魔女の宅急便」は一貫して親の無力を描き続けてきた作品なのではないだろうかと、最終巻を読み終えた今になって思います。親の無力という言い方がネガティブにすぎるならば、子供の成長における他人の役割の大きさと言いかえても構わないでしょう。13歳で魔女猫とふたりきりで見知らぬ町に旅立たなくてはならない魔女は、親の援助をほとんど期待できない状況に身を置かなくてはなりません。実際キキは、グーチョキパン屋の夫妻をはじめとしてたくさんの他人の中でもまれて成長を遂げてきました。
さて最終巻では、キキは母親になり、ふたごのニニ(女の子)とトト(男の子)の旅立ちを見送る立場となります。キキの物語では旅立ち以前については多くは語られませんでしたが、今回は旅立ち以前にスポットを当てることで、実は旅立ち以前も親よりも他人の援助の方が子供の大きな力になっていたことが描き出されています。
ニニはちゃらんぽらんにみえてやっぱりちゃらんぽらんな子で、魔女になるかどうかを決断しなければならない10歳を過ぎても判断を保留していて、キキをやきもきさせていました。キキはついつい自分が母親に言われていたような小言をニニに向かって言ってしまいます。

キキはニニと同じ年のころ、コキリさんによくいわれたおなじ言葉を口にしていました。あのころ、キキもコキリさんのやんわりとした、それなのにおしつけがましい言葉がうるさくてたまりませんでした。またニニとおなじに、なれるんだからならなきゃ損って、ちゃっかり思ったこともあったのです。こういうことは、わすれてないけど、わすれているのでした。(p70)

「わすれてないけど、わすれているのでした」とは、なんと簡潔で残酷な言葉なのでしょうか。こんな平易な言葉で親と子の絶望的な断絶の本質を突けるなんて、つくづく児童文学作家は恐ろしいと思います。
キキは心配することと小言を言うことくらいしかできませんでした。しかしニニは、将来をきちんと考えている同年代の友達なんかに影響されて、ゆるゆると自分の生き方を決めていきます。
男の子のトトの方はもう少し複雑です。魔女の家系ということでいつも女の子のニニばかりが注目されることを彼は不満に思っていました。魔女になりたいという思いもニニよりも明確だったのに、ほうきで空を飛ぶ魔法を会得することができず、大きな挫折を経験してしまいます。ここでも親は無力で、彼が空を飛ぶのとは別の魔法を見いだすきっかけを作ったのはやはり他人たちでした。
トトを支えた多くの他人の中でもっとも重要な役割を果たしたのは、3巻に登場し今ではトトのペンフレンドになっていたケケでした。「半分魔女」のケケは、30を過ぎても定職に就かず結婚もしないでふらふらしている半端者です。で、半端者なところがいいのです。
キキやとんぼさんはきちんと仕事をしていて既婚者で子持ちなので、本人の意思とは無関係に一定の社会的役割を期待されます。そういうきちんとした大人は当然子供にとって必要な存在なのですが、面白味には欠けます。発展途上の子供は、ケケのような半端者からこそ学べることもあるのです。いつまでたっても「半分のまま」で「いい先輩になれない」ケケの言葉こそ、なにものにもなれそうにない自分に悩むトトの心にストレートに届きます。

あたしも、あんたも、名前のかいてない半端な免許証をもらってさ、つかっていいんだか、悪いんだか……はたして本物なのか、偽物なのか、うろうろよね。だれも生まれる前のことはおぼえてないしね。でもさ、仮に半分ってことはよ。もう半分がどこかにあるってことよ。見えないものなんだけど、でもないとはいえない。だからトト、自分で作ってもいいのよ。自分の半分は。えらぶんじゃなくって、思うままに作ることができるのよ。これってもしかしたらすごいことじゃない。(p106)

1985年から始まったキキの物語はとうとう完結してしまいました。今はただ、四半世紀近い長い時間をかけておもしろくて美しくて心動かされるお話を紡いでくれた角野栄子に感謝を捧げたいです。いつかニニやトトのその後のお話も読んでみたいですが、それは気長に待ちたいと思います。