「カラフル」(森絵都)

カラフル

カラフル

カラフル (文春文庫)

カラフル (文春文庫)

来年映画版が公開されるそうなので、復習をば。
「カラフル」の単行本が出たのは1998年でした。今になって思えば「カラフル」の登場は、その後のYAの盛り上がりの起点となる事件だったといえます。90年代の児童文学を語る上で避けて通れない重要な作品であることは間違いありません。
では、あらすじを簡単に確認しておきましょう。ネタバレ配慮はありません。
主人公は生前の記憶を持たない死者の魂である「ぼく」です。彼はうさんくさい天使から自殺した中学生小林真の肉体に乗り移り、現世にホームステイするように指示されます。さらに、ホームステイを通して「ぼく」が生前に犯した罪を思い出すという課題を与えられます。実は小林真こそが「ぼく」なのですが、その事実は終盤まで伏せられています。「ぼく」の犯した罪は当然「自殺」だったということになります。
ホームステイ先の小林真の家は一見普通の平穏な家庭のようでしたが、実は伏魔殿でした。兄は真をいじめたおし、父親は会社の上役が不正をはたらいて検挙されたため棚ぼたで出世したのを子供の見ている前で大喜びする人非人、母親は習い事の先生と不倫をしていました。小林真はある夜片思いをしていた同級生が中年男とホテルに入っていくのを目撃してしまいました。さらに、ホテルから母親と不倫相手が出てくるところまで見てしまい、それが自殺の引き金になりました。
真の自殺の原因となった母親の不倫や同級生の少女の売春という不幸は、絵に描いたようなベタなものです。が、それは作品の欠点にはなっていません。なぜなら、ベタをネタ化したりメタ化したりすることでもっと上のステージに運ぶことが森絵都の得意技だからです。
たとえば、「宇宙のみなしご」(1995)や「つきのふね」(1998)では、ベタな通過儀礼をネタ化メタ化することで、「成長」というあまりにもベタなテーマを一段上の視点から俯瞰することに成功しました。
「カラフル」において「ぼく」は、記憶を奪われ天使に虚偽の設定を吹き込まれるという手続きを通して、自己とそれをめぐる人間関係を客観的にみることができるメタ視点を手に入れることになります。ホームステイをしているつもりの「ぼく」にとって全ては他人事ですから、あまりためらいなく小林真の人間関係に介入することができます。そしてそれが結果的に小林真をいい方向に導くことになります。こうした距離の置き方が90年代後半の気分にうまくあっていたため、「カラフル」はベストセラーになり得たのでしょう。その結果たどり着いた結論は平凡な非凡、非凡な平凡が大切だというきわめて凡庸なものですが、距離を置く作法によってその凡庸さは丁寧に再検証されており、凡庸な結論に説得力が与えられています。
さらに、その凡庸さの強度にも注目する必要があります。小林真の片思いの相手であったひろかのせりふを引用します。

「三日にいちどはエッチしたいけど、一週間にいちどは尼寺に入りたくなるの。十日にいちどは新しい服を買って、二十日にいちどはアクセサリーもほしい。牛肉は毎日食べたいし、ほんとうは長生きしたいけど、一日おきに死にたくなるの。ひろか、ほんとにへんじゃない?」
(文春文庫版p187)

この問いかけに対し「ぼく」は、「ぜんぜんふつう、平凡すぎるくらいだよ」と答えます。こういった子供の欲望や精神の不安定さは、良識ある大人が存在しないことにして目を背けてきたものです。これを「ふつう」で「平凡」だと肯定して見せたところにこの作品の懐の大きさが表れています。絶対的な生の肯定が、「カラフル」の偉大なる凡庸さなのです。