「レッツとネコさん」(ひこ・田中)

レッツとネコさん (まいにちおはなし―レッツ・シリーズ)

レッツとネコさん (まいにちおはなし―レッツ・シリーズ)

90年代児童文学においてひこ・田中の登場はなぜ衝撃的だったのか、そろそろ本格的に検証されなくてはならない時期に来ていると思います。そのひとつの要因として考えられるのは、彼があらゆる建前をはぎ取ってしまったことです。たとえば「家族」が単なる制度でしかないことを暴いてしまったり、子供が性的な存在であることをあけっぴろげに描き出してしまったり。建前をはぎ取った後に残るものをそのまま描いてしまう「みもふたもなさ」がひこ・田中作品の大きな特徴であるといえます。
彼の久しぶりの単著となるこの「レッツとネコさん」の主人公は五歳児のレッツです。正確にいえば、五歳のレッツが三歳だった頃の自分を振り返るという形式になっています。主人公はあまりにも幼すぎるため、建前を建前と認識することができません。つまり、レッツの世界にはそもそも建前は存在しないのです。ここに90年代の作品との差異を見いだすことができます。ただし、建前のない世界の「みもふたもなさ」を描いているという点では共通点も見られます。
レッツの前では、あらゆるものがただありのままのそのものとして認識されます。ですから彼は幼稚園の先生のいう「おともだち」という言葉をそのまま受け取ってしまいます。なので、彼の世界には「すきなおともだち」と「きらいなおともだち」が存在することになります。先生が「みんなのことを おともだちと 言う」のは建前で、本来の意味から考えれば「きらいなおともだち」という概念はおかしいと思うのは大人の判断です。レッツの前に提示されている状況から判断するなら、レッツの解釈はまったく合理的なものとなります。
この作品で描かれているのは、幼児が言葉の獲得とともに世界を認識し、自分と世界とのつながりをつくっていく過程です。というと観念的で難しそうに見えてしまいますが、言葉という具体的なものが手がかりにされているのでわかりやすいです。
物語のラスト、レッツは母親が拾ってきた猫の名付けを行います。ところが、レッツはネコの名前を「キュウリ」と発声しているつもりなのに、両親は「キウイ」といっているのだと受け取ります。言語によるコミュニケーションの難しさは、その意味内容の解釈の齟齬によるものだけではありません。それ以前の問題として、正確に発声できるか、発声した言葉がそのまま相手に受け取られるかという壁まであるのです。しかしレッツはその困難に絶望を覚えてはいません。彼はこの行き違いを「ふしぎ」で「たのしかった」と感じています。貪欲に世界とコミットしていこうとする子供のたくましさに感嘆せざるを得ません。