「満月のさじかげん」(樫崎茜)

満月のさじかげん

満月のさじかげん

右足を一歩、左足を一歩、前へ前へふみだすたびに、「ぼぉん、ぼぉん」と音がする。耳のなかの、そのずっとおく。頭にすごく近い場所で、音が鳴る。(中略)
なんだろう、この感じ。鼻で息をする音さえ、頭にひびく。せきばらいをしたらもっと大きく、はじけるみたいに、耳のなかで音がした!(p5)

この作品ほど「身体」というテーマに踏み込んだ児童文学はなかなかないでしょう。主人公の小学5年生の少女鳴は奇妙な耳鳴りが聞こえたり、乳歯が抜けた後から永久歯がなかなか生えてこないことを気にしていたりと、身体に関する悩みを抱えています。鳴だけでなく、この作品には身体に欠損があったり過剰な部分があったりする人物が多数登場します。口のきけない少女が登場したり、片腕を失って幻肢痛に悩まされている男と交流を深めたり、妊娠中の女性教師に複雑な思いを抱いたりといった具合です。

からだのことはどうしていいかわからない。自分のからだなのに、自分の力ではどうすることもできない。(p84)

上のような部分を見ると、単に表層的な身体の欠落などを描くだけではなく、もっと根源的な身体のままならなさの問題に取り組もうとする作者の強い意欲が感じられます。
児童文学で「身体」がテーマにされる場合、成長と呼ばれる身体的変化に目が向けられがちです。特に女子が主人公の場合、初潮が重大な役割を果たすことが少なくありません。このことについて論じた有名な評論があります。1987年に発表された横川寿美子の「初潮という切り札」です。児童文学作品で初潮が取り上げられる場合、そのことをきっかけに少女は「産む性」という役割を押しつけられ、女同士の閉ざされた連帯の中に組み込まれてしまうことが多いというのが論の要旨です。
「満月のさじかげん」では直接初潮については触れられていませんが、終盤に子供たちが妊娠した女性教師のおなかを触る場面があります。おなかを触った後少女たちは口々に「お母さんになりたい」という願いを口にします。ここは「初潮という切り札」で批判されているような、出産を女性の至上の使命と考える「産む性」教の参入儀式のようで不気味です。なんだ、樫崎茜ほどの書き手でも20年以上前に指摘されている陥穽にはまってしまったのかと、うんざりした思いでこの場面を眺めていました。
しかしそう考えるのは早計でした。樫崎茜は最後、鳴に「お母さんになりたい」ではなく、「お母さんみたいな女の人になりたい」という台詞を吐かせ、巧みに焦点をずらしてしまいました。
しかし、鳴のこの発言はさらに作品のテーマを複雑にしています。実は鳴の母親はすでに亡くなっていて、作中でも何度かそのことに触れられているのですが、母親がどういう人物だったかについての具体的な記述は(おそらく意図的に)ほとんどなされていません。ゆえに鳴の発言の真意を探るのは困難です。
というわけで不本意ながら、よくわからなかったというのが結論です。ただひとつだけ断言できるのは、この作品には作者のあとがきに記されている意図通り「本当のこと」と「痛み」が確かに描かれていたということです。

本当のことを書こうと決めて、この作品にとりかかりました。
人それぞれ思うことがあるでしょうが、わたしにとって本当のこととは、人は生まれてやがて死ぬこと、そして、その過程で形を変えながらもたらされる様々な種類の痛みのことです。(p194)