『女王さまがおまちかね』(菅野雪虫)

女王さまがおまちかね (ノベルズ・エクスプレス)

女王さまがおまちかね (ノベルズ・エクスプレス)

世界中で作家が「女王さま」と名乗る謎の人物に誘拐される事件が発生。さらわれる作家はシリーズものの続編をなかなか出さない人ばかりで、女王さまに監禁されて続編を書かされていました(大規模な『ミザリー』ですね)。女王さまにさらわれた作家キリヤ・コウの『密林のマヤ』という作品の続編を心待ちにしている少女ゆいは、女王さまを釣るために自作の小説をネットにアップしますが……。
これは本が好きな子供にはたまらない物語だと思います。自分の書いた小説が認められて、女王さまの城で大好きな作家に会える、そして女王さまの城には古今東西のあらゆるの本がコレクションされているという、まさに読書好きの夢の世界が描かれています。
願望充足とともに創作することの難しさも描かれています。ゆいの書いた小説は『密林のマヤ』の二次創作に過ぎませんでした。しかしこの作品ではパクリを否定していません。オリジナリティは幻想だとまではいいませんが、人の真似をして型を学ぶところから始めないと新しいものを生み出すことはできないということを主張しています。そして最後には読書感想文の丸パクリを肯定してしまいます。
そう、この作品の裏テーマは、読書感想文の問題をあぶり出すことにありました。ゆいは読書感想文の課題図書を何冊か読んで、それを「戦争もの」「障害者もの」「エコもの」と分類します。さらにゆいの友達の現が、その3テーマの読まずに書ける読書感想文のテンプレを提示します。この作業により、読書感想文用というフィルターを通すことで、作品の読みが非常に窮屈でつまらないものになってしまうという問題が顕在化します。
もちろん個々の作品は作家の真摯な思いが込められているはずです。しかし子供は、上から押し付けられる児童文学の権威性を敏感に嗅ぎ取り、そこに抵抗を感じます。児童文学の書き手(そして読書感想文の出題者)と受け手の間には、明確な上下関係があります。それがあるかぎり、正しいことを書くだけでは、子供には受け入れられません。
『天山の巫女ソニン』という優れた啓蒙児童文学を書いた菅野雪虫が、子供の側に立って児童文学の送り手と受け手のすれ違いの問題に触れてしまうというのは、なんとも皮肉です。つくづく児童文学は難しいと思います。