『深海魚チルドレン』(河合二湖)

深海魚チルドレン

深海魚チルドレン

「シロクマがハワイより北極で生きるほうを選んだからといって、だれがシロクマを責めますか」
とあるエレガントなおばあちゃんの有名な台詞です。もちろんこの台詞は嘘です。シロクマにハワイに住むことを強いる人間がいないのなら、わざわざこんなことを言う必要はありません。
この作品の主人公、13の少女真帆も、そんな理不尽な状況に苦しんでいる子供です。真帆は絶望的なまでに相性の悪い母親を持っていました。母親は非常に交友関係が広く、「エネルギーに満ちてい」て、「華やか」で、「パワーがみなぎっている」人間で、なにかあるたびに真帆を自分の所属するにぎやかな世界に導こうとします。しかし真帆は、にぎやかな世界にいると疲れてしまう側の人間でした
梨木香歩のシロクマのたとえはまだ陽気なイメージですが、「深海魚チルドレン」真帆の自己イメージはだいぶ趣が異なります。ハワイのシロクマと、海面に迷い込んだ深海魚。深海魚のフォルムは機能美が追求された優美なものなのですが、一般的にはグロテスクであるとされています。
真帆は深海魚のように「暗くて冷たくて、ものすごい水圧のかかる海の底」が居心地がいいと感じる人間です。そして、それが少数派で日陰者の価値観であることを自覚しています。
海面に出た深海魚のうきぶくろが破裂してしまうように膀胱が破裂する恐怖という具体的なかたちで、真帆の苦しみは表現されています。頻尿に悩まされている彼女にとっては、50分間拘束される授業中の教室は地獄に等しいのです。
真帆の苦しみに理屈の介在する余地を与えないこの設定は、実に秀逸です。この設定によって、真帆は1秒たりとも教室にいてはいけないということが、自明のことになります。
世間で支配的な価値観と折り合いを付けられない子供にそっと寄り添える、素晴らしい物語でした。