『ココロ屋』(梨屋アリエ)

ココロ屋 (文研ブックランド)

ココロ屋 (文研ブックランド)

人間の精神機能の正体はなんなのか?脳科学は、脳の器官を細分化して、それぞれの機能を探ろうとしています。精神分析学は、意識と無意識を分断したことからめざましい発展をみせてきました。どちらのアプローチも、精神をパーツ化する発想に基づいています。
この作品の発想も同様です。この作品では、「ココロ」という抽象的なものを取り替え可能なパーツのようなものとして扱うことによって、その機能をわかりやすく可視化しようという試みがなされています。
友達と喧嘩して先生から「ココロを入れかえなさい」と説教された「ぼく」は、突如はてしない異空間に変容してしまった学校の廊下で、ウツロイ博士なる人物が営むココロ屋という店に迷い込みます。そこは文字どおり好きな「ココロ」を入れかえることのできる店で、ビンに入った様々な「ココロ」が陳列されていました。どんかんなココロ・せんさいなココロ・強いココロ・弱いココロ・ふわふわしたココロ・もやもやしたココロ・がちがちしたココロといった具合。
「ぼく」は「好かれるココロ」をほしがりますが、博士は「好かれるかきらわれるかは、あいての好みで、感じ方がちが」うから、そのようなものは取り扱っていないと言います。「ぼく」は人に好かれるため、まず「やさしいココロ」に取り替えます。でもうまくいかず、何度も「ココロ」を取り替えるはめになります。
「やさしいココロ」は、感情を表に出すかどうかを調整するフィルターの機能を持っています。「やさしいココロ」によって常に他人のことを考えた行動をしてしまうため、「ぼく」はいやと言うことができなくなってしまいます*1。その後「ぼく」が取り替える「ココロ」もそれぞれの機能を持っています。そして、そういったパーツ化された「ココロ」の寄せ集めでできた複雑なものが、天然の人間の「ココロ」であるという結論に落ち着きます。
精神機能を分裂させるという発想は、表現のレベルでもあらわれています。やや低学年向けであるという事情もありますが、この作品は改行が多く、1文のみで改行されるケースがほとんどです。そして改行されるごとに感情が切り替わっていく様子が描かれています。改行という操作をはさむことで、「ぼく」の思考は意識の流れというようなものではなく、もっと分断されたものであるようにみえるようになっています。

*1:ただし、「やさしいココロ」によって制限されてしまう「ぼく」の欲望はどこかにあるはずなので、ココロ屋でやりとりしている「ココロ」は精神機能のすべてを担っているわけではないことになります。「ココロ」が精神機能のどの領域をカバーするものであるのかは詳細に検討しなければならない課題ですが、ここでは保留します。