『シーラカンスとぼくらの冒険』(歌代朔)

シーラカンスとぼくらの冒険 (スプラッシュ・ストーリーズ)

シーラカンスとぼくらの冒険 (スプラッシュ・ストーリーズ)

突然ですが、いま「時計坂問題」という言葉をつくりました。高楼方子『時計坂の家』の主人公フー子が茉莉花の園をマリカに明け渡そうとしたように、物語の主人公が謙虚すぎるがゆえに、事件への介入権(主人公の座)を別の登場人物に譲ろうとする問題を指す言葉とします。
シーラカンスとぼくらの冒険』でも同様の問題が扱われています。物語は小6の少年マコトが地下鉄のホームでベンチに座っているシーラカンスに出会うところから始まります。頭のねじのはずれた魅力的な導入部ですが、マコトは懐疑主義者で、自分がみた現実を信じようとしません。活発な性格の親友アキラとシーラカンスの謎を探ることになりますが、発見者の地位は自分にふさわしくないと考え、「……陸シーラカンスに会ったのが、ぼくじゃなくてアキラだったらよかったのに」とつぶやきます。
本を熱心に読むような子供は、フー子やマコトのように一歩引いてしまう子が多いですから、こういった問題はもっと児童文学のテーマとされていいと思います。
この作品の最大の魅力は、シーラカンスという神秘的な素材を見事に料理している点にあります。陸上で生活し、何億年も生きているという陸シーラカンス。この設定は、幼い子供が勘違いしやすいポイントをうまく拾っています。
幼い子供は進化論の話をすると、シーラカンスがそのまま水中から陸上に這い出していったと勘違いしてしまいますし、シーラカンスデボン紀から生きていると聞けば、種としての寿命と個体の寿命を混同して、ひとつの個体が数億年生きているのだと思ってしまいます。もちろんこの作品の想定読者はそういった勘違いを乗り越えている年代ですから、この設定がほどよい距離感を持ったファンタジーとなるのです。