『チャーシューの月』(村中李衣)

チャーシューの月 (Green Books)

チャーシューの月 (Green Books)

たくさんの、たくさんの、たくさんの、石の墓。
みんな、昔は生きていたのか?みんな明希のばあちゃんみたいに焼かれたのか?みんな、骨になったのか?骨になって、みんな、ここにいるのか?みんな、いなくなったくせに、ここにいるのか?
もしあのとき、わたしがかあちゃんを刺して、それでかあちゃんが死んじまったとしても、やっぱりこんなふうにいるってことか。死んで骨になっても、心のなかからはぜったいに消せやしないってことか。やっぱり、いるってことか。とうちゃんが苦しんでいるのは、そのせいなのか。
憎んでも、消そうと思っても、消えないなんて。(p202-203)

村中李衣の短編「たまごやきとウインナーと」を読んでいる読者は、子供がネグレクト親に投げつけたあの言葉を忘れることはないはずです。村中李衣は言葉を飾りません。飾らないからこそ、その言葉の破壊力は並外れたものとなるのです。
この作品は児童養護施設で暮らす子供たちの物語です。語り手の美香は、小学6年生ながらもうやさぐれはてていて、身勝手な大人を刃物のような鋭い言葉で批評します。
たとえば、新入りの明希が父親に連れてこられる場面、父親が来る途中にラーメン屋でチャーシューメンを食べたことを話し、「こいつときたら、ラーメン食べたことないなんていいやがるんで。おまけにこいつ、チャーシュー見て、『外のお月さまが浮かんでいる』なんて、おもしれぇことを……」と能天気に語るのを見て、「親が連れていかなきゃ、そりゃ、食べたことないだろう。相づちを打つのもばからしい」と冷めた態度。
明希は極端に記憶力が優れている子供で、記憶するとき、思い出すときに「かしゃっ」とカメラのようにつぶやく癖がありました*1。これは裏を返せば忘れる能力が劣っているということにもなります。明希は誰かに怒られそうになると体をすくめて「ごめんなさい、とうちゃん、もうしません、ごめんなさい」と謝ります。理由は説明するまでもないでしょう。
明希の特質から、「記憶」が作品のひとつのテーマとして浮かび上がってきます。そして、上に引用した行方不明になった明希を美香が墓場で発見する場面がクライマックスになります。
家族の記憶が呪いになる子供も世の中には少なからずいます。たとえ虐待加害者が死んだとしても、記憶はゾンビのようによみがえってきて逃れることはできません。美香の飾らない言葉によってその苦しみがダイレクトに伝わってきます。

*1:ところで、名たんていカメラちゃんも今の時代は発達障害児にラベリングされてしまうのだろうか?