『左足のポルカ』(手島織江)

左足のポルカ

左足のポルカ

さて、少年が崖から転落したときのことだ。
あの瞬間には、あの子のからだのほとんどがすっかりおどろいて、もうこれではとうてい助からないものとあきらめたのだけれど、少年の左足として生まれついた俺ばかりは、「なんとしても、こんなところで死んでしまうのは嫌だ。俺はまだ、左足としてのよろこびを十分に味わってはいない。俺の肌のなんとぴちぴちしたことか!俺は、俺だけでも助かってやるぞ!」とかんがえて、そうきめたとたんに、それまで俺自身が思いもよらなかったほどの力がむくむくと湧いてでたので、からだのほかの部分から、まるで小枝の折れるほどの軽やかさではなれると、そのまま崖をぴょんぴょんと跳ねのぼり、すたこら逃走してしまったんだ。

書き出しがいきなりこれ。読者に有無をいわさず、左足が冒険するという異常な世界に引き込んでしまいます。左足の手記(左足なのに!)という形式のなんとも風変わりなナンセンスファンタジーです。
主人公は左足なので、人間の倫理観に縛られません。口からでまかせ(左足なのに!)を言って人間たちをだまし、わけのわからぬ衝動に突き動かされて危険な方へ危険な方へと突き進んでいって、いつの間にか南極探検の一行に紛れ込んでしまいます。
基本的にナンセンスですが、変なところで理屈っぽい面もあります。少年の体から離れてしばらくたった左足は、なぞの苦しみを味わいます。やがてそれは空腹だと気づきますが、どうすることもできません。幸運にも、世話をしてくれていた隠者が秘術で口を作ってくれます(おかげで話すこともできるようになった)。しかし、またしばらくたつとなぞの苦しみが襲ってきました。つまり、入り口があれば出口も必要なのにそれがなかったというオチです。
さらに、手記の最後で「どうやら俺は、この手記にさえ、ペンにまかせてお得意のでまかせを、いくらかまぎれこませたようだ」と書かせてしまう手の込みよう。どうしたものか。とりあえず、得体の知れない新人作家の登場を喜ぶことにします。