『光のうつしえ』(朽木祥)

光のうつしえ 廣島 ヒロシマ 広島

光のうつしえ 廣島 ヒロシマ 広島

この世界は小さな物語が集まってできている。それぞれのささやかな日常が、小さいと思える生活が、世界を形作っている――そんなふうに私は考えています。小さな物語を丁寧に描いていくことこそが、大きな事件を描き出す最も確かな道なのだとは思いませんか。(p167)

戦争を知らない世代が戦争を語るにはどうすればいいのか、朽木祥はこの難問に、物語を徹底して追求するという方法で挑もうとしているようです。
この作品の導入部は、中学生の少女希未が灯籠流しの最中に見知らぬ老婦人から、まるで長年の待ち人に出会ったかのような態度で「あなた、おいくつ」と尋ねられるという、ミステリアスな場面になっています。そこから希未は母親の出生の秘密を疑うという、読者の興味を引きやすい展開が採用されています。そのさまは、作中でまさに『家なき子』や『王子と乞食』のような「物語」のようであると、自己言及されています。
希未は母親の件も含めて作中で多くの原爆体験者の話を聞くことになります。その体験談は作中では「物語」であると記述されています。ここで語られているのは、事実でも真実でもなく、それらにある操作を加えた結果生まれた「物語」であるということになっています。
物語性を追求した結果、この作品や『八月の光』のような原爆をテーマにした朽木作品は、読者の心を大きく揺さぶる美しい物語になっています。悲しくて美しい物語として、この作品は超一流です。
ところで、日本人が先の戦争の物語を美しい物語として消費するためには、ぜひとも目を背けておきたいことがあります。この作品では、そこを覆い隠すために、巧妙な工作がなされています。
それがよくわかるのが、第14章で学校の先生の手紙として記述されている部分です。先生は、第二次世界大戦は「無辜の民」が巻き込まれた初めての戦争だったと語りますが、そこで、「無辜の民」とは非戦闘員のことであるという奇妙な定義をします。これでは、戦地で戦っていない日本人はみんな、戦争責任を持たない「無辜の民」だということになってしまいます。
また先生は、「無辜の民」が殺されたのは日本だけではないとして、ロシアのレニングラードポーランド、中国をはじめとしたアジアの国々、ユダヤ人を例として挙げます。「無辜の民」という強引なくくりで日本とアジアの国々を同列に並べる無神経さは理解しがたいものがあります。しかしこのおかげで、読者は当時の日本の立場から目を背けることができ、美しい物語を楽しむことができるようになっています。
かろうじて戦争責任に触れているのは、「私たち日本人は、あの不幸な戦争において、好むと好まざるにかかわらず、加害者に与した結果になりました」という部分です。完全に他人事のような言い方です。論評に値しません。
この作品を読んだ子どもが、戦争の問題を自分に引き寄せて考えることは、難しくなってしまうでしょう。予備知識の乏しい子どもがこの作品を読むと、戦争は自分たちとは関係のない一部の特殊な人間が引き起こしたものであるという印象しか残らないはずです。
この作品は、個人の美しい物語に耽溺するあまり、個人と社会を断絶させてしまっています。はじめに引用した、「小さな物語を丁寧に描いていくこと」で「大きな事件を描き出す」という理念が実現されているとは到底思えません。
繰り返しになりますが、悲しくて美しい物語としては、この作品は超一流です。
最後に、戦争児童文学において子どもの戦争責任までも問うた、さねとうあきらの言葉を引用します。

戦火に焼かれ、命を奪われる、地獄絵図さながらの光景も、どういう経緯でそうなったか、その脈絡を納得させないことには、「戦争はこわい。戦争なんかきらい」という、情緒的反応を引き出すにとどまって、論理的に「戦争は絶対許さない、戦争を断固阻止する」といった、実効性のある反戦の意志は育たないのではないか。もともと人間が計画し、人間が担った戦争を、主観的な被害体験の中に押し込めてしまうと、台風か地震なみの〈天災〉と思わせてしまうでしょう。
『定本さねとうあきらの本1 神がくしの八月』(てらいんく・2003)「定本のための あとがき」より