『ぼくは』(藤野可織/文 高畠純/絵)

ぼくは

ぼくは

芥川賞の受賞したばかりの藤野可織による絵本です。
表紙からミスリードが仕込まれています。このタイトルだと、素直な読者は中央にいる男の子が「ぼく」であると予想することでしょう。しかし「ぼく」は、左にいる牛乳でした。牛乳は大好きな「きみ」(男の子)に飲まれてしまいます。牛乳は自分の存在が消滅することに恐怖を感じますが、やがて、「あれ?ぼくは いる。/きみの なかに いる。」と、少年と一体化したことに気づきます。続いてパンやりんごが「ぼく」になり、同様のことが繰り返されます。
「ぼく」という一人称の語りが採用されている以上、読者は食べられる側に感情移入するよう誘導されてしまいます*1。その結果、牛乳やパンの方が人間の立場にあるように感じられます。そうなると、この男の子は絵に描いてあるとおり人間だと解釈していいのでしょうか。藤野可織にはSF的な発想の作品も多いので、様々な深読みができそうです。
ただし、最後に捕食されるのは本です。本には作り手の人間の思いが込められていますがら、このケースは対等の人間が食う食われる関係になっているとみていいでしょう。
いずれにせよ、食われる側は必ず、「ぼくも きみが すき」「ぼくは きみが すき」と、食う側への愛を表明します。そして、最後のページはこういうもの。

ぼくは きみ。
きみは ぼくじゃないけど、
ぼくは、きみ。
ぼくは きみと ずっと いっしょ。

愛が重すぎます。

*1:ただし、「きみ」に対して語りかける文体でもあるので、一人称と二人称のせめぎ合いの中で読者の立ち位置は安定せず、常に揺さぶられます。