『あの日とおなじ空』(安田夏菜)

あの日とおなじ空 (文研ブックランド)

あの日とおなじ空 (文研ブックランド)

こういった作品を読むと、もう戦争児童文学は限界にきているのではないかと絶望感を持たされてしまいます。
沖縄に行った少年が曾祖母から戦争体験を聞き、タイムスリップして自分も戦争を目撃するという話。同趣向の先行作品は数え切れないくらいあり、まったく目新しさがありません。沖縄だからキジムナー出しとけばいいという発想も安易。これも先行作品がいくつもあります。
こういった手法を初めて試みた人はもちろん偉大です。しかしこの手法が繰り返されるうちに陳腐化し、ただの作法と化してしまっているのではないでしょうか。この作品に見られるような現代の子どもが捉えられなくなっているという欠陥は、その作法さえ守ればいいという考え方の弊害ではないかと思います。
この作品は、戦争の悪を「ひき算」(人が亡くなって減ること)と捉え、逆に平和は「たし算」になるから尊いのだとしています。あとがきではこのようなことが述べられています。

あの戦争で起きた「ひき算」を、日本人は必死にはたらき「たし算」に変えてきました。くらしはゆたかになり、平和な国となりました。私はそれを、とてもほこりに思います。

これは高度経済成長時代の発想です。人口が減りこの発想が通用しなくなる時代をこれからの子どもたちは生きていかなくてはならないという現実が、著者にはまったく見えていません。戦争を語ることに汲々とし、今の子どもの現実を見失っているのなら、それを児童文学として発表する意味はありません。
戦争体験者から戦争体験を聞くという手法は、今の子どもの祖父母世代が戦争を知らない世代になっている現実を考えると、使えなくなるのは時間の問題です。この作品のように語り部を曾祖父母にさせるというのも、時間稼ぎにしかなりません。そろそろ別の手法を考えないと、戦争児童文学は行き詰まってしまいます。

光のうつしえ 廣島 ヒロシマ 広島

光のうつしえ 廣島 ヒロシマ 広島

朽木祥の『光のうつしえ』では、語られる子どもも過去の人物にするという方法で、語り部の高齢化の問題を棚上げしていました。しかしこれも、今の子どもに正対して戦争を伝える努力を放棄しているともとれます。
ハングリーゴーストとぼくらの夏

ハングリーゴーストとぼくらの夏

長江優子の『ハングリーゴーストとぼくらの夏』は、現代の子ども読者を意識しているという点では、最近の戦争児童文学にしては評価できる作品でした。シンガポールという土地を舞台に歴史の連続性を感じさせる工夫がされていて、今の子どもに向かって語る意義のある作品となっていました。
しかしタイムスリップの手法がやはり安易で、この手法がただのお作法化しているように思えてしまいます。
さらに問題なのは、著者が戦争児童文学の先行作品や批評を全然学ばないまま戦争児童文学を書いてしまっているということです。『日本児童文学』誌2014年11・12月号の創作時評で西山利佳が指摘していますが、作中で無批判に『かわいそうなぞう』に触れている部分がありました。『かわいそうなぞう』が時系列を歪曲したトンデモ本であるということは児童文学関係者には常識のはずなのですが、わざわざ戦争児童文学を書こうという人間にすらそれが周知されていないという現実が露呈されてしまいました。
このような作品ばかりになってしまうと戦争児童文学は、戦争児童文学愛好家にしか見向きもされない過去の遺物になってしまうでしょう。今の子どもに向かって語る新たな手法を模索するため、戦争体験者から子どもが戦争体験を聞くのと、タイムスリップは控えてみてはどうでしょうか。