『きみは知らないほうがいい』(岩瀬成子)

きみは知らないほうがいい (文研じゅべにーる)

きみは知らないほうがいい (文研じゅべにーる)

学校よ、と思う。そんなに偉いのか。そんなに強いのか。そんなに正しいのか。
(p181)

偶然同級生の昼間くんと同じバスに乗り合わせた米利は、間が持たず興味もないのに「どこに行くの」と尋ねました。昼間くんは、「それはね、きみは知らないほうがいいと思うよ」と、謎めいた返答をします。彼のもってまわった話し方は春樹文体のようで、拒絶を感じさせます。後日米利は、昼間くんが路上生活をしている男性クニさんと一緒にいる現場を見て、それが彼の秘密であったと知り、ふたりと交流を深めていきます。
5年生の時に学校に行けなくなり、6年生になってやっとのことで通えるようになった米利は、正しいことばかり言っていてクラスで浮いている昼間くんのことが気になっていました。やがて昼間くんは、学校で悪意に渦に巻き込まれていきます。
米利の叔父の義次郎は、学校で起きる悪意について「狭い檻の中で飼育されているんだから、噛みあっちゃうんだよ」と説明していました。米利にとっての学校は「毒を塗った矢が飛び交う」場所であり、「だれかが血を流すまでつづく摩擦」のある場所であり、「一人で透明な箱に入っているような気」で過ごさなければならない場所でした。渦巻く悪意や疎外される人間を強烈に可視化させた長谷川集平の挿絵も相まって、作品世界は非常に重苦しくなっています。
物語に登場する大人たちは子どもに知恵を授けようとします。それは一定の説得力を持つものの、有効な手助けにはならないものとして描かれています。小説家志望でバーテンダーをしている義次郎叔父は、自由に生きているようでも良識の枠を抜け出していません。祖母も小学生には逃げ場がないことに理解を示しますが、戦争体験を語るときの彼女のいばった態度などは、米利からシニカルに見られています。クニさんは大人のほうが自由だと話しますが、彼のように「社会の端」に行くわけにもいきません。
結局岩瀬成子は、子ども自身に徹底的に考えさせ、戦わせるという方法をとりました。米利は学校で起きる「小さい出来事」について、「いじめ」といった出来合いの言葉を注意深くしりぞけながら考察を深めていきます。そして彼女は「わからないもの」に変容しようとします。

一歩一歩、わたしははみ出していっている気がする。たとえば、十二歳という年齢から。女の子らしさから。小学生らしさから。わたしはわからないものになろうとしているのかもしれない。
(p172)

そして、冒頭に引用した学校に対する宣戦布告に至ります。繊細でありながら闘争的。デビュー作から続く岩瀬成子らしさを出しつつ、しっかり現代に対応したすばらしい作品になっています。これは岩瀬成子の新たな代表作となるのではないでしょうか。