『にせあかしやの魔術師』( 征矢清)

にせあかしやの魔術師 (大日本の創作どうわ)

にせあかしやの魔術師 (大日本の創作どうわ)

にせあかしやの魔術師

にせあかしやの魔術師

たったひとり、理科室につづいた実験じゅんび室にのこっていたタケシは、あたりがあんまり暗いので、はっとして顔をあげました。実験道具のはいった戸だなの中も、かべぎわにならべてある昆虫の標本も、石の標本も、もうはっきり見えないくらい暗くなっていました。
目のまえにあるいのししのはくせいも、ずっと顔をちかづけないと、どんな表情をしているのかわかりませんでした。

征矢清・林明子による幻想的な小品が、復刊ドットコムから復刊。
居残りさせられてすっかり暗くなった小学校の実験準備室の様子を描いた冒頭の描写から、すっかり不思議な世界に引き込まれてしまいます。
にせあかしやの林を通って家に帰ろうとしていたヒラノ・タケシは、黒い岩の上の水たまりで水がぽくりぽくりとわきかえっている場面を目撃します。それはにせあかしやの魔術師と名乗る黒いレインコートを着た青年が魔法の儀式をしている現場でした。タケシは儀式の邪魔をしてしまい、つぐないに翌年の儀式の準備の手伝いをさせられることになります。
その準備とは、にせあかしやの葉の下にフラスコをかざして120秒数え、目に見えないほどの少量の水を集めることでした。この作業をしているうちに時間の感覚が混乱してきます。気がついたら960時間過ぎていて、疲れて寝たら夏休みになり、あれよあれよといううちに季節はめぐり秋になって葉が散り冬になって雪がふってしまいます。
絆創膏で補修された割れ目だらけのフラスコ、45年前に学校の裏山に突然現れて捕獲されたいのししのはくせいといった小道具が、強烈な印象を残します。
魔術師から借りたフラスコがタケシが理科の時間に割ってしまったもののようだったり、魔術師とタケシの父親につながりがあるようだったりと、非日常の世界と現実のリンクがおぼろげにほのめかされていますが、あくまでほのめかしに終わっていて条理は見えません。
この作品が与えてくれるのは、内容はほとんど忘れてしまったけど、目が覚めた瞬間自分はいままでとても美しい夢を見ていたということだけは記憶しているときの、あの感覚です。幸福感に満ちた読後感を味わえることを保証できます。