『マザーランドの月』(サリー・ガードナー)

マザーランドの月 (SUPER!YA)

マザーランドの月 (SUPER!YA)

2013年のカーネギー賞ほか、多数の児童文学賞を受賞したイギリスのYAディストピアSFです。
現実とは別の歴史の歩みをたどった架空の1956年、マザーランドという独裁国家を舞台とした物語です。マザーランドの独裁者は、自由主義諸国をはじめとした他国を威圧するために有人月面着陸を計画していました。しかし現実にアポロ計画が成功したのは1969年。1956年の技術力で有人で月面に達するのは考えにくいです。マザーランドの少年スタンディッシュがこの計画の秘密を知ってしまうというのが物語の骨格になります。
この物語の語り手のスタンディッシュは、ディスレクシアであるという設定になっています。そのため順を追って話を進めることができず、表現も独特なので、スラスラ文章を読み進めていくことは困難です。しかし、慣れてくれば強烈な叙情性を感じることができます。学校での凄惨な体罰や、政府による拷問の苛烈さなどは、一見たどたどしいようなこの文体だからこそ伝わってくるものがあります。また、他国から流れてくるテレビの映像で自由な世界「コッカ・コーラスの国」を見て憧れを募らせていくさまも、胸を打つものがあります。
物語の全体像がみえてくれば、王道のディストピアSFとして読むことができます。読み始めは独特の文体に引っかかるかもしれませんが、そこを越えた先には極上の物語体験が待っています。
読者とスタンディッシュのあいだには持っている情報の格差があります。これを照らし合わせてみると、さらにスタンディッシュの置かれている状況の残酷さが浮かび上がってきます。
たとえばわれわれは、「コッカ・コーラスの国」はマザーランドよりはまともだとしてもけっしてスタンディッシュが思っているような理想郷ではないことを知っています。だからこそなおのこと、「手のとどかない虹の果ての生活」へのスタンディッシュの憧れが哀しく感じられてしまいます。
また、マザーランドの月面着陸計画が茶番であることも容易に予想がつきますし、実は反政府側の主張にも問題点があるということも知っています。その程度のものに踊らされたのだと考えると、スタンディッシュの英雄的行動の価値にも疑問が生じ、絶望が深まります。