『ふたりの文化祭』(藤野恵美)

ふたりの文化祭

ふたりの文化祭

男女それぞれひとりずつの生徒を主役に据えて交互に語り手を務めさせる形式で、公立トップの高校で繰り広げられる青春模様を描いた神丘高校シリーズの第3作。このシリーズの顕著な特徴は、第1作『わたしの恋人』の主役のひとり龍樹を除いたほとんどの主役が、親から呪いをかけられているということです。性的に放縦な親を持ったため、恋愛や家族に期待を持てなくなってしまっていることが、シリーズの主役の多数に共通する悩みになっています。シリーズの呪いの構造を確認するため、まずシリーズ第2作『ぼくの嘘』の内容を振り返ってみましょう。

そして、それ以上におそろしいのは……。
搦め手で来られたら、自分を守りきれるかどうか、あたしは、今でも自信がないのだ。
矯正されるかもしれない。
自分の気持ちなのに。
自分でも気づかないうちに。(角川文庫版p65)

『ぼくの嘘』の主役の結城あおいは完璧美少女ですが、極度に利己的で娘を自分の作品としか思っていない支配的な母親に悩まされていました。そして、自分が同性愛者であることを母親に知られ、性指向を矯正されることをなにより恐れていました。そのあおいが、弱みを握って脅迫して自分の片思いの手助けをさせるために下僕にしていた笹川勇太に、「群れから離れた個体は狩りやすい」「恋愛においていちばん大事なのはタイミング」という非情な恋愛論を開陳します。ここでのあおいは、自分が嫌っていたはずの「母」としてふるまい、勇太を支配しようとしているのです。ここで、母からあおいへの呪いは、勇太に伝播します。そしてその呪いは長い時間をかけてあおいにはねかえってきて、勇太によって性指向を矯正されてしまうという、最悪の結末を迎えます。なんという因果応報。『ぼくの嘘』は、実に端正なホラーになっています。
あおいは勇太をまったくリスクのないオタク男子だと侮って、自分の下僕として利用していました。しかしそこには、ふたつの大きな誤算がありました。ひとつは、勇太もあおいと同じく公立トップ高に進学できるくらいの知能を持っていたということ。もうひとつは、勇太がヤンデレ暴力母から虐待を受けていて、他人の顔色を読む能力を訓練されていたということです。侮っていた男子を通して母の呪いが成就してしまうというこの皮肉が、あおいの悲劇を際立たせています。
親からかけられた呪いの方向・伝播・媒介物などを確認すると、神丘高校シリーズ(そして、その他多くの藤野恵美作品)の構造がみえやすくなります。

ぼくの嘘 (角川文庫)

ぼくの嘘 (角川文庫)

では、本題の『ふたりの文化祭』に戻りましょう。バスケ部リア充男子の九條潤と非リア文学少女の八王子あやのふたりが、今回の主役を務めます。文化祭実行委員としてクラスの中心的役割を果たしている潤は、文化祭の名物企画であるミスターコンテストの有力候補にもなっています。一方のあやは、準備作業中に仕事がなくて疎外されることを恐れるという立場。そんな正反対のふたりですが、親から呪いをかけられているということはやはり共通しています。
潤は忘れていますが、実はふたりは同じ保育園に通っていて、母親の迎えが遅いためいつもふたりで残されていたというつながりがありました。この幼少期のエピソードから、母を求めていた潤と母を拒絶していたあやという、これまたきれいな対称性がみえてきます。
別れたはずの父との関係をずるずると続けている母を嫌い、孤独を指向するあやの生存戦略は、『わたしの恋人』の森せつなと共通しています。リア充であったはずの潤の孤独もやがて明らかになります。ふたりの孤独が呼応するため、「ふたりの」というタイトルとは裏腹にシリーズ中でもっとも孤独を指向した作品になっています。
第17章の潤の夢のエピソードに、潤が母からかけられた呪いのたちの悪さが如実に表れています。その夢の中で、潤は母とともに虎に変身して兎を狩って食らいます。虎に変身というのは、『山月記』を意識しているのでしょうか。いや、親子そろってけものになるというのは、南吉っぽさも感じられます*1。なんにせよ、いつも男をとっかえひっかえしている潤の母親の性格を考えると、これが性的な教唆を表していることは明らかです。潤のかけられた呪いも、またやっかいなものになっています。
さて、結末は明かせないので、この作品の方向性を暗示していると思われる作品を紹介して終わりにします。神丘高校のこの年の文化祭のスローガンは、「自分を解き放て! ありのままで神高祭」となっています。校門には氷の城をモチーフにしたアーチが作られています。つまり、『アナと雪の女王』ですね。
アナと雪の女王』は、エルサが孤独を獲得することに失敗した悲劇です。たったひとりで壮麗な氷の城を築き上げることができる孤高の才能は、最終的に人々を楽しませる曲芸レベルにおとしめられてしまいます。このことを参照すると、文化祭という場で潤とあやが最後に取った行動の意味は……ということになりそうです。

*1:いやいや、そもそもこの第17章は、「こんな夢を見た」という1文から始まっているんだから、まず漱石を参照すべきなのでは。と、かように藤野恵美は引用の多い作家なので、読むのが大変で楽しくて困ります。