『日本の少年小説―「少国民」のゆくえ』(相川美恵子/編)

日本の少年小説―「少国民」のゆくえ (インパクト選書)

日本の少年小説―「少国民」のゆくえ (インパクト選書)

大和心 / 泉鏡花
朝鮮の併合と少年の覚悟 / 巌谷小波
南洋に君臨せる日本少年王 / 山中峯太郎
おてんば娘日記〈抄〉 / 佐々木邦
忘れな草 / 吉屋信子
名を護る / 北川千代
白い壁 / 本庄陸男
港の子供たち / 武田亞公
露地うらの虹 / 安藤美紀
東の雲晴れて / 山中峯太郎
序詩 / 巽聖歌
軍曹の手紙 / 下畑卓
「少年文学」の旗の下に! / 早大童話会
浮浪児の栄光〈抄〉 / 佐野美津男
おならのあと / 岩本敏男
島 / 仲宗根三重子
ふまれてもふまれても / 狩俣繁久
The End of the World / 那須正幹

少国民」であること、すなわち、大人からある期待を背負わされる存在としての子どもをテーマとして、近代以降の少年少女小説を編んだアンソロジーです。タイトル、著者名をみただけでおなかいっぱいになるような、重量級のアンソロジーになっています。
泉鏡花の「大和心」は、あの美麗な文体で少年が暴虐な「毛唐」に立ち向かうさまを語っており、山中峯太郎の「南洋に君臨せる日本少年王」は、実録小説という体裁で、日本少年が南洋の島の「土人」を従えて神国の威光を広めるさまを描いています。
現代の視点からみれば「バカじゃないの」の一言で片付けられるような愛国小説ですが、エンターテインメントとしての完成度をみると、当時の子どもが楽しんで読んでいたであろうことも想像できます。
残酷なもので、そういった愛国小説と同じ俎上に載せられると、戦後児童文学の理念的支柱とされる早大童話会のマニフェスト「「少年文学」の旗の下に!」や、最終核戦争後に壊れた核シェルターの中で生活する少年を描きトラウマ児童文学として有名になっている那須正幹の「The End of the World」のような比較的新しい作品にも、同様の居心地の悪さが感じられてしまいます。
その居心地の悪さの正体は編者あとがきで的確に説明されているので、引用します。

近代以降、少年少女たちはいつも大人たちから名づけられ、大人たちの幻想を背負わされてきた。大正期は「童心」「無垢な魂」の代名詞として持ち上げられ、戦時下には「少国民」として皇国の大儀の一端を担わされ、敗戦後は「希望」と「未来」と「理想」の象徴となり、「社会の変革者」たることを求められ、現在は戦争の記憶を受け継ぐ存在として期待される。
(……ああ、息が詰まりそうだ……)
大人が少年少女に何か善きものを託すとき、そこに密かに忍び込む危うさに、私は目を凝らしたい。

収録作のなかで、岩本敏男の「おならのあと」についてのみ、簡単に感想を記しておきます。というもの、この作品は子どもに対する幻想などという範疇を軽く飛び越えているからです。
重い結核に苦しまされている著者自身を思わせる語り手が、自身の病苦や家族の戦争での苦しみなどを語り聞かせるという形式の作品です。戦死して叙勲された兄についての「なんだい、それ」「勲章をもらうんだよ」「もらって、だれがさげるの?」「しるもんか」「そうだね、あの子は、まだかえってはこないもんね」という問答で終わるところなどは、素朴な反戦小説のようにみえなくもないですが、語りに含まれる毒は異様です。
おならをすると失望することはないかという、すっとぼけたような話題から話は始まります。しかしそこから、読者対象であろう子どもも含めた失望しない人間に対する皮肉と呪詛が展開されます。それを理解できない人間はマルチース並の知能である、怪獣であると。

もし、おならのあとで、きみたちが、いつでもなにも感じなかったとすれば、それはきみたちがまだ人間ではなくて、哺乳類の一種類でしかないからです。(中略)マスチースという種類の犬と、どっこいどっこいぐらいのバカだということになるのです。

彼らは怪獣なのです、といってみたところで、きみたちはきょとんとするだけです。なにがなんだかわからないのです。失望もしないのです。(怪獣の手下め!)

すっとぼけた語りの裏に隠された彼の絶望と怨念の深さははかりしれません。