『七日目は夏への扉』(にかいどう青)

七日目は夏への扉 (講談社タイガ)

七日目は夏への扉 (講談社タイガ)

それならば、生存の孤独とか、我々のふるさとゝいふものは、このやうにむごたらしく、救ひのないものでありませうか。私は、いかにも、そのやうに、むごたらしく、救ひのないものだと思ひます。この暗黒の孤独には、どうしても救ひがない。我々の現身は、道に迷へば、救ひの家を予期して歩くことができる。けれども、この孤独は、いつも曠野を迷ふだけで、救ひの家を予期すらもできない。さうして、最後に、むごたらしいこと、救ひがないといふこと、それだけが、唯一の救ひなのであります。モラルがないといふこと自体がモラルであると同じやうに、救ひがないといふこと自体が救ひであります。
(坂口安吾「文学のふるさと」より)

講談社が、青い鳥文庫の「ふしぎ古書店」シリーズの番外編をライト文芸レーベルの講談社タイガで出すという、興味深い試みをおこなっています。

ふしぎ古書店1 福の神はじめました (講談社青い鳥文庫)

ふしぎ古書店1 福の神はじめました (講談社青い鳥文庫)

「ふしぎ古書店」シリーズは、心に闇を抱えた小5文学少女東堂ひびきが、福の神の弟子として人助けにいそしむ話です。『七日目は夏への扉』では、東堂ひびきのおばで同居人の25歳翻訳業美澄朱音が主役を務めます。
元恋人の森野が事故死する夢を見た朱音は、1週間の順番が入れ替わるというタイムリープ現象にはまりこみます。実際森野は事故死してしまい、その死の真相を探る朱音にも身の危険が迫ってきます。
タイムリープを利用して悲劇を回避するという筋立てに目新しさはありませんが、その形式をうまく利用してサスペンス性に富んだエンタメに仕上げています。辻真先先生の評*1にあるように、クライマックスの文字通りのドライブ感は読ませます。これを読んだ読者は、きっとルパン三世ごっこ(銭形警部ごっこ)がしたくなることでしょう。
この作品の特異なところは、登場人物のほとんどが本を読む人で引用癖を持っており、自分の言いたいことをストレートに言わず、まず文学作品から引用したりどこかで聞きかじった雑学を披露したりするところです。にかいどう青は、その種の人々をターゲットにしているのでしょう。
そのなかでも印象的なのは、作中でおそらく2番目に壊れている人物を評して引用される「文学のふるさと」の文言です。「救ひがないといふこと、それだけが、唯一の救ひ」、この思想を参照すれば、児童向けの「ふしぎ古書店」シリーズのシビアさの背景を説明できそうです。
文学のふるさと」の土壌の上にどのような新しい児童文学を生み出すのか、この番外編によって、児童文学作家としてのにかいどう青の今後がますます楽しみになりました。

私は文学のふるさと、或ひは人間のふるさとを、こゝに見ます。文学はこゝから始まる――私は、さうも思ひます。
アモラルな、この突き放した物語だけが文学だといふのではありません。否、私はむしろ、このやうな物語を、それほど高く評価しません。なぜなら、ふるさとは我々のゆりかごではあるけれども、大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではないから。……
だが、このふるさとの意識・自覚のないところに文学があらうとは思はれない。文学のモラルも、その社会性も、このふるさとの上に生育したものでなければ、私は決して信用しない。そして、文学の批評も。私はそのやうに信じてゐます。
(坂口安吾文学のふるさと」より)

*1: