『百年後、ぼくらはここにいないけど』(長江優子)

百年後、ぼくらはここにいないけど

百年後、ぼくらはここにいないけど

やる気のない地理歴史部でだらだらと中学校生活を送っていた石田健吾は、3年生になって思いがけない災難に見舞われます。熱血タイプの新顧問のせいで中学校のある渋谷のジオラマを作ろうということになったのですが、部長の太陽が転校してしまったため新部長に昇格した健吾が活動を引っ張らなければならなくなってしまいます。本人含めて部員の誰にもやる気はありません。百年前の渋谷を再現しようという方向性はなんとかまとまりますが、次々とトラブルがやってきます。
部活が地味で登場人物も地味でジオラマ作りという活動も地味という、地味地味地味地獄になっています。しかし、物語のなかでも華々しい活躍を望むことのできないタイプの子どもには、気持ちを寄せやすい作品です。それに、地味だからといって物語がおもしろくないわけではありません。転校した太陽が残したモノリスの秘密や、健吾の過去の失恋体験といった全体を引っ張る謎を配置しつつ、次々と起こる問題の発生と解決のプロセスをテンポよく語り進めているので、エンターテインメントとして楽しめます。
部員のなかに渋谷で百年以上営業しているというそば屋の娘がいるが百年前の写真を確認すると店がなくて、詐称疑惑が持ち上がってくるとか、地味に制作費不足に悩まされるとか、いやな感じの問題が続発します。問題が解決したからといってハッピーとはならず、下級生がうまく問題を処理すると主人公が嫉妬するという地味にめんどくさい厄介ごとも起きます。
結局のところ、登場人物は主人公含めてダメ人間ばかりで、人と人とがわかり合うことはまず不可能だという、絶望的な作品になっています。しかし不思議と、それでもどうにかやっていけるという前向きさが感じられて、読後感は非常によいです。
完成間近のジオラマが幻のように消えてしまう場面がとても味わい深いです。健吾はそこで、ジオラマ作りはパラレルワールドでの出来事だったのではないかと疑います。百年前に渋谷にいた人間はいまはまず生きていなくて、百年後もいま生きている人間はほとんどいなくなっているでしょう。そのはざまの現在でなにをしていようと、それも夢のようなはかないことでしかありません。そんな無常な世でいまを生きることの意味を語り得る物語の強度を、この作品は持っています。