『金色の流れの中で』(中村真里子)

「君に責任はない」
もう一度言った。
「君に責任はないよ、まだ」
(p53)

大胆に空白を配置したカバーデザインが目を引きます。イラストは今日マチ子です。
時は1964年。小学6年生の木綿子は、近所の川が金色に光る場面を目撃したことをきっかけに、「川の下の変な人」と呼ばれている浮浪者の和也さんと知り合います。
見た目はきれいだけど実は破傷風菌など汚いものが混在している川が金色に光り、そこに巨大な魚影が見えるというイメージが鮮烈です。
主人公の木綿子は、食べ物の好き嫌いが激しく、人間の好き嫌いが激しく、本を読むことが好きな、そんな子です。木綿子は自称2030年から来た未来人の和也さんと気が合い、家族関係の悩みなどを相談します。
1964年の過去と2030年の未来、このふたつの時代の共通点は、カタストロフから約20年後であることです。当事者の記憶はまだ生々しいけど、それを知らない若い世代には遠く感じられる、微妙な時期となっています。
木綿子の父親は、食卓で唐突に大陸で中国人をたくさん殺した自慢を始めます。母親はそのことに拒否反応をみせる木綿子を叱りつけ、「戦争がいやだなんて、そんなの当たり前じゃないの。戦争なんか、いやに決まっている。だから、敵をやっつけてさっさと終わりにしなきゃなんないでしょ」と、ある意味真面目で筋道は通っている理屈をまくしたてます。
木綿子の両親の態度は、当時の大人としては非常に凡庸なものです。その凡庸さが、リアルでおぞましいです。過去は美化されがちなもので、戦時中も大部分の人が内心では戦争に反対していたかのような印象を与える戦争児童文学も散見されます。普通の人は普通にそこそこ真面目に戦争協力していたという事実は、しつこく語り伝えていく必要があります。
一方、未来人の和也さんは、彼にとって約20年前のカタストロフ時に醸成された「つながりあって、ひとつにまとまってがんばろう」という空気への違和感を表明します。
絆は全体主義につながり凡庸な悪は戦争につながると、反戦平和を訴えようという意図は、当然この作品にはあるのでしょう。しかし、この作品で描かれているのは公憤ではありません。そうしたものへの嫌悪感は、あくまで好き嫌いの激しい少女の親や同級生に対する私怨であるとしている節度が、この作品の美点です。情景描写の美しさも相まって、感受性の鋭い子どもの心の揺れを描いた児童文学としてたいへん優れた作品になっています。