- 作者: 三田村信行,romiy
- 出版社/メーカー: ポプラ社
- 発売日: 2017/10/05
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログ (2件) を見る
三田村版では、安寿の出生から人買いにさらわれるまでの前日譚が、150ページほどたっぷり語られます。人付きあいが苦手で、社交的な性格の厨子王に対し死を願うほどの嫉妬心を抱いていた安寿は、家出してしばらく岩木山に住む山姥の世話になり、人を愛する心を得て人間の世界に帰還します。このため、さまざまな悩みを抱えた存在としての人間安寿の姿が立体的に現れてきます。同時に、神隠し体験を経た安寿は、すでに彼岸に近い存在としても設定されます。人間であると同時に異形でもある存在として、安寿は成長していきます。出生時にたまたま屋敷に逗留していた絵師が、「歳は十六 ――は自害」という謎の予言を聞いたり、安寿のと別れの場面で黒い地蔵菩薩像を渡した山姥が「あの黒仏は、もう一度ここにもどってくるじゃろう」(安寿は?)と予言したりと、着々と布石を打ちつつ、本編に入っていきます。
安寿の人間性を複雑に設定したことにより、物語では安寿の主体性が強調されることになります。そして、安寿の……(『山椒大夫』の物語はいろいろなヴァリエーションがあるが、最終的にはあのルートに行く)も、主体的な行動として読み替えられます。この読み替えは、鎮魂の物語としては正しいです。
この作品で興味深いのは、前日譚でむやみに人を殺しまくっているので、因果がねじれていることです。安寿と厨子王の父は迷信嫌いで、陰陽師を虐殺していました。この一家は仏罰を食らっても仕方がありません。安寿も安寿で、自身の軽率な行動が元でひとりの下女を自害に追いこんでいます。復讐されても文句を言えない立場なのです。このような因果がたまっていくので、『山椒大夫』というより『牡丹灯籠』や『累ヶ淵』のような怪談話を読んでいるような印象になります。となるとあの結末は、「君ら同じ間違いを繰り返すの? 学習能力ないの?」ということにもなってしまいそうですが、どうなのでしょう。
ともあれ、安寿側を一方的な被害者側に置かないことにより因果がからまって、運命の流転の物語がよりダイナミックになっていることは確かです。三田村信行は『おとうさんがいっぱい』や『ぼくが恐竜だったころ』などトラウマ児童文学をたくさん生産していますが、この『安寿姫草紙』も子どもの心に強烈な爪痕を残す作品になりそうです。