『月のケーキ』(ジョーン・エイキン)

月のケーキ

月のケーキ

英国ファンタジーの巨人ジョーン・エイキンの短編集。
表題作「月のケーキ」は、爆弾製作の実験の失敗で歴史のある実家を炎上させるという豪快なやらかしをしてしまった少年トムの物語。家を失ったトムは、祖父のいるウェアオンザクリフという小さな村で暮らすことになります。車より速く走るオオカミのいる森を抜けないとたどり着けない、喪失を抱えた人々が生活する村の雰囲気がいいです。そこでトムは、時間を巻き戻す魔力を持つ「月のケーキ」の作成の手伝いをさせられることになります。「槍があれば 全部やり直せる」みたいなことを吹き込む悪い大人は信用しちゃダメですよね。
抱腹絶倒の社会派コメディも何作かありました。「バームキンがいちばん!」は、娘が暇な時に考える「バームキン」という架空の存在のことを聞いたスーパーマーケットチェーンの社長が、うちの商品にはバームキンが入っていないということをセールスポイントにして商売をしようと企む話です。現実でも同じようなことをしている悪徳企業がいくつも思い浮かびますね。
「ドラゴンのたまごをかえしたら」は、観光資源として温厚なドラゴンと共生している町に騎士がやってきて問答無用で殺害する話。その後、村ではドラゴンのたまごをかえして新たな観光資源を得ようとしますが、生まれたドラゴンは前のと違って凶暴な性格だったので騒動が起こります。ノリと勢いでサクっと事態が悪い方向に進むので読んでいるうちは笑えますが、個人や集団が引き起こす現実の悲劇もこのようなノリで生み出されるということに思い至ってしまうと、暗然とした気分になります。
収録作の世界は死に満ちていて、異次元への扉が簡単に開くようになっています。そこには当然暗さや悲しみがありますが、当時に軽やかさや憧憬のような気分も共存しています。それが現実の世界のあり方なのでしょう。ナンセンス作品には、現実離れしているようでかえって現実のあり方をあぶり出す役割もありますが、この作品集はその意味でも優秀です。