『オオカミの時間 今そこにある不思議集』(三田村信行)

オオカミの時間: 今そこにある不思議集

オオカミの時間: 今そこにある不思議集

あまたの小学生を恐怖のどん底にたたき落とし、不条理という言葉の意味を教えこんだ三田村信行佐々木マキによる伝説の短編集『おとうさんがいっぱい』の刊行から、もう45年。またもこのペアによる短編集が出ました。著者はあとがきでこれが最後の短編集になるだろうと述べています。
やはりまず気になるのは、表題作の「オオカミの時間」です。「ウルフ探偵」シリーズをはじめとして、三田村作品においてオオカミは特別な存在になっています。それは社会のアウトサイダーとして振る舞い、野生や暴力性の象徴としての役割も果たしています。
「オオカミの時間」の主人公は、〈考える子ども〉になって学校へ行けなくなった少年。しばらく〈向こう側〉(外の世界)に出ていませんでしたが、ある日オオカミのフルフェエイスマスクをして外に出て、電車に乗り、あるおばあさんの自殺の場面を目撃することになります。
単なる外の世界を〈向こう側〉と呼んでいることに、はじめは違和感を抱きました。三田村作品における〈向こう側〉とは、たとえば「へやのないまど」のような現世の先にある世界ではないかと。しかしこの作品における〈向こう側〉は、死よりも深い絶望を意味していました。70年近く〈向こう側〉で生きてきたおばあさんは、結局自ら死を選ぶしかなかったという絶望。ここで少年は、まだ〈向こう側〉への期待を捨てきれなかった自分の甘さを知ります。ここにあるのはあまりにも現実的な不条理です。
「オオカミの時間」のあと、5作ピストルをテーマとした短編が続きます。これも暴力という現実的な不条理を描いています。
三田村作品といえば、『おとうさんがいっぱい』収録作に代表されるような超現実的な不条理がまず思い浮かびます。おとうさんが増殖したり、部屋から出られなくなったり、家に帰れなくなって自分が異形のものに変身したり。しかし、超現実的な不条理と現実的な不条理のあいだにはあまり差はないのかもしれません。そもそも否応なくこの世界に我々が生み出されてしまったということが不条理なのですから。